第49話 相楽総三、脱出。そして開戦へ(一)

文字数 5,015文字

 相楽総三が中心となって計画した下野(しもつけ)、甲州、相模での決起作戦は、成功失敗の如何(いかん)にかかわらず(といってもほとんど失敗に終わったが)生き残った浪士たちは現地から撤退し、全員もれなく三田の薩摩藩邸へ帰還した。

 そういった騒乱が起きていたのは江戸の郊外だけに限らず、この頃になると江戸の市中でも強盗や辻斬りが横行するようになって治安がおおいに乱れていた。そのため日本橋、神田、芝といった普段はにぎやかなところも夜になると人通りがぱったり途絶えるといった有り様だった。
 中でも「御用盗(ごようとう)」と称する盗賊が江戸の各地で暴れ回り、商家などから金品を強奪していた。御用盗とは要するに「幕府が天朝様に政権を返上したのだから、その天朝様のために御用金を差し出せ」という連中である。
「御用盗の犯人はきっと三田の薩摩藩邸の浪士たちであろう」
 江戸の人々はこのように噂し合った。
 なかなかお目が高い。少なくとも半分以上は当たっている。
 相楽たちの狙いは、
「江戸やその近郊で騒乱を引き起こして幕府の足元をおびやかす。そうすれば幕府は関西へ兵を送れなくなるだろう」
 ということなのだが、さらに相楽個人の願望としては、
「その騒乱によって、あわよくば『幕府が我々に対して“開戦”の決断をする』というところまで持って行きたい」
 ということであった。
 それで幕府を挑発するために、わざと江戸市中で騒ぎを巻き起こしているのだ。

 西郷が相楽にそのような指示をしたわけではない。
 相楽が勝手に西郷の思惑を超えて活動を激化させたのだ。

 しかし、だからといって何でもかんでも闇雲に強盗をしても良い、と相楽は指示していたわけではない。条件をつけていた。
「一、幕府を助ける御用商人。二、勤王の志士に敵対する商人。三、夷狄(いてき)(外国人)と商いをしている商人。これらは尊王攘夷の敵なので襲っても良い。ただし、私欲によって庶民を襲うことは決して許さない」
 この条件に反し、私欲によって庶民の家へ強盗に入った身内の浪士を処刑したこともあった。仮にも彼らは「世直し」のつもりでやっているのだから、あまりに無軌道な強盗などやる訳がない。が、中には多少、道を踏み外してしまう人間もいたであろうし、さらに彼らを真似た「(にせ)御用盗」が次々と現れたのも、また必然であった。
「我々は薩摩藩ゆかりの浪士だ。殺されたくなかったら金を出せ!」
 などと薩摩藩邸の浪士とはまったく無関係であるにもかかわらず、 そういった風に各地へ押し入って金品を強奪した者もいたのだ。
 それらの強盗の中には(たち)の悪い幕臣が混ざっていることもあったという。憎たらしい薩摩人に汚名をかぶせることができ、なおかつ自分の利益にもなるのだから彼ら幕臣にとっては一石二鳥といったところだったろう。
 このころ物価(特に米価)高騰が原因で人々が経済的に疲弊していたことは前に何度か書いた。それで人々はここぞとばかりに金持ちや商家を襲ったのだ。特に浅草蔵前の札差(ふださし)(高利貸し)などが標的にされた。
 そういった偽の御用盗も含めて、江戸の人々が「すべて薩摩藩邸の浪士たちのしわざだ」と思い込んだのは、幕府びいきの江戸人からすれば当然のことであったろう。当時の江戸の人々からすれば薩摩人は完全に敵扱いだったのだから。
 その一方、相楽たちとしても、薩摩の評判が悪くなるのは苦々しいことではあったが、そうやって便乗する連中が増えてくれたほうが江戸の治安はますます悪化するので、そういった偽者(にせもの)までが跋扈(ばっこ)する状況をそのまま放置していた。

 当然ながら幕府は激怒し、徹底的に取り締まった。
 以前から市中警備を担当していた新徴組(しんちょうぐみ)をはじめ、そういった「警察部隊」の人員を増やして市中を巡回させ、取り締まりを一段と強化させた。
「手に余ったら躊躇(ちゅうちょ)なく斬り捨てても構わない。斬り捨てた理由をあとで詳しく報告する必要はない」
 とまで言い含めて彼らを市中へ送り出し、「怪しかったらとにかく討ち取れ」という方針で浪士たちを厳しく取り締まった。
 前に何度か触れたように、この新徴組は庄内藩(酒井家)が管理している部隊で、京都で会津藩が管理している新選組の江戸版とでもいうべき存在だ。
 というのも、新徴組も新選組も元々は清河八郎が作った「浪士組」に源流があり、清河と共に京都へ上った後そのまま京都に残ったのが新選組で、そのあと江戸へ戻って清河の死後に庄内藩へ引き取られたのが新徴組なのである。つまり彼らも元は浪士だったということだ。
 さらに言うと、新徴組の古参連中も清河と江戸へ戻ったときに横浜焼き討ちの軍資金を徴収するために(今回の薩摩系浪士ほど大がかりではなかったとはいえ)豪商から金品を押し借りしていたものだが、そのときも偽の浪士組が清河の真似をして各地で金品を強奪したので、その偽者を清河自らが討伐した、という一幕もあった。
 それはさておき、ここまで江戸の治安が悪化すると、もはや新徴組だけで手に負える段階ではなくなっていた。
 幕府は直属の遊撃隊、別手組、撒兵隊(さっぺいたい)などにも市中警備を命じ、さらに諸藩からも警備隊を出させて江戸の治安回復につとめた。


 こうして幕府と薩摩の緊張状態は極限にまで達しようとしていた。
 そこへ十二月二十二日と二十三日と、続けざまに事件が起こった。
 まず二十二日の夜、赤羽橋のあたりで最初の事件が起きた。赤羽橋から三田の薩摩藩邸まではほんのわずかな距離しかない。
 その赤羽橋の近くに美濃屋という蕎麦(そば)屋があり、そこが新徴組の屯所になっていた。その日の夜、新徴組の隊士たちが巡回から帰ってきて店で夜食を食おうとしていたところ、パンパンパン!と数発、店の中へ鉄砲が撃ちこまれた。
 驚いた隊士たちはすぐさま表へ飛び出て敵を探したが、射ち手はすぐに隠れたか逃げたかしたようで、犯人は見つからなかった。

 それで事件はそのままになってしまったのだが、日付が変わった翌日の明け方、江戸城で火災が発生し、二の丸が焼け落ちた。この二の丸には天璋院(篤姫)が住んでおり、天璋院や姑の本寿院などは三の丸や西の丸へ避難した。
 この火災は失火か放火か、原因は不明、ということになっている。が、こういった不穏な折りの出来事だけに、薩摩出身の天璋院の侍女たちが薩摩藩士と共謀して放火した、もしくは薩摩藩士が天璋院を取り戻そうとして放火したのではないか、などと幕府内では公然とささやかれた。後年、薩摩藩士だった市来(いちき)四郎が「あれは伊牟田尚平が放火したのだ」と史談会で証言したりもするが、真相はいまだに藪の中だ。

 そしてこの二十三日の夜、今度は赤羽橋から四町ほど南にある庄内藩の屯所に十発以上の鉄砲が撃ちこまれ、使用人など二人が死亡した。この時も誰が撃ったか犯人は分からなかった。
 ただしここは赤羽橋よりさらに薩摩藩邸に近く、ほとんど通りを挟んだ向かい側、と言っていいほどの近さである。

 これで幕府と薩摩の間で張りつめていた緊張の糸がバッサリと断ち切られた。
 さすがに幕府も堪忍袋の緒が切れて、即座に薩摩藩への開戦に踏み切ったのだ。
 と言いたいところだが、このとき江戸の幕府内にはそういった決断のできる人物がいなかった。
 最高責任者である将軍は関西へ行ったっきりで、ずっと江戸を留守にしている(というより慶喜は将軍になってから一度も江戸へ帰っていない)。政局の中心は完全に関西へ移っており、江戸の留守政府には閑職の老中がわずかにいる程度で、
「薩摩藩を懲罰するために三田の薩摩藩邸へ攻撃を仕かける」
 つまり、それはそのまま、
「薩摩と(いく)さをする」
 ということに直結してしまう訳だが、そういった重大な決断を下せる責任者がいなかった。
 にもかかわらずこれ以降、そういった責任者を欠いたまま、確たる信念も戦略もない成り行き任せの勢いで、事はそちらへ向かって引きずられて行くのである。

 その後押しをするにあたって最も影響力のあった人物は小栗上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ))であるという。
 もとより小栗は幕府絶対主義者であり、薩長反幕勢力に対する最強硬派である。
 薩長なんか完全に討ち滅ぼして幕府による中央集権制度、すなわち「郡県制」を実施すべきだ。そのためならフランスから金も軍事力も躊躇(ちゅうちょ)なく借りるべきだ。
 というような考えの持ち主である。ちなみにこの郡県制の発想はのちの廃藩置県の発想と同じで中央集権制度の確立をめざしたものだが、廃藩置県と違ってその中心には天皇の代わりに将軍が座る、といった内容だと考えていい。
 そういった幕府絶対主義者であるがゆえに、このとき小栗は、
「即刻、薩摩藩邸を攻撃すべきだ」
 と主張した。そして幕府内では多くの有力者が彼の意見に賛同した。
 小栗からすれば、これは絶好の機会だと考えている。
上方(かみがた)におられる上様は手ぬるい。朝廷や薩長に対して幕府は譲歩し過ぎだ。幕府の軍事力は陸海ともに薩長を圧倒している。いま戦さをすれば必ずこちらが勝つ。上方の上様が“開戦”の決断をなさらないのなら、江戸から戦端を開いて、むこうの尻を叩くしかない)
 彼はこういった判断のもと、薩摩藩邸への攻撃を実行しようとしたのだった。

 一方、小栗の好敵手として有名な勝海舟は、小栗の意見に反対だった。
 薩長に多くの知人がおり、しかもフランス嫌いでイギリスびいきだった勝からすれば小栗のやり方は稚拙(ちせつ)で危なっかしいと思っている。ただしこのとき表立って小栗に反対したわけではなかった。
 表立って反対したのは町奉行の朝比奈昌広と駒井信興(のぶおき)であった。二人は二十二日と二十三日の事件が起きる前から自重論を唱えていた。
「まずは交渉によって強盗犯の浪士たちを差し出させるべきである。もしそれが失敗に終わっても、薩摩藩邸の周囲を厳重に警戒すれば害は軽くなるはずだろう。とにかくあせって事を起こしてはマズい。ここは慎重を期すべきだ」
 しかし攻撃賛成派はこれに反論した。彼らの考えは小栗と同じである。
「上方の連中は皆臆病だから尻込みしているのだ。彼らの目を覚ますためにも、この関東で火ぶたを切るべきだ」
 これに対し朝比奈たちは、
「上様の御深謀も確認せずにこちらで勝手に事を起こして、上様の(おぼ)()しと食い違っては取り返しのつかないことになる。戦さを始めるのは一大決心が必要だ。一時の憂さ晴らしのためにやるべきではない」
 と述べて反論したが攻撃賛成派は納得せず、数日間、同じ議論をくり返すばかりで誰も決断できなかった。
 のちに朝比奈はこの議論の様子を手記で残すのだが、その中で、
「閣老(老中)に至りては真に酔うが如く。いまだこの二途(攻撃か自重か)を決するあたわず」
 と書いている。
 そしてこの議論の場で朝比奈はとうとう「自ら関西へ行って上様(慶喜)に確認をとってくる」と言い出した。
「蒸気船で往復すれば八日間で帰って来られる。上様に直接関東の事情を申し上げ、上様のご判断を(あお)いでから戻って来る。強盗の被害は小事、戦さを起こすのは大事。この二つを同列にすべきではない」
 これを聞いて攻撃賛成派は、
(そんなことをされてたまるか。上様の思し召しを伺えば必ず『強盗などの小事で戦さを起こしてはならぬ』と(おお)せになるに決まっている。この機を逃してなるものか)
 と攻撃が中止になるのを危ぶみ、ひそかに庄内藩の重臣をそそのかして、これを利用した。
 それから間もなく、その庄内藩の重臣が江戸城へやって来て幕閣に上申した。
「もし、事ここに至っても薩摩藩邸を攻撃しないのなら、我々がこれ以上市中を巡回しても無駄でござる。よって、我が藩の市中取り締まりの任務をただちにお役御免としていただきたい」
 この庄内藩の訴えによって、老中もとうとう折れて薩摩藩邸への攻撃を決定した。むろん、その直前にあった江戸城への放火の疑い、さらに庄内藩への発砲事件も老中の決定を後押しした。

 こうして幕府は、戦争に勝つための長期的な戦略もないまま薩摩藩との“開戦”に踏み切ったのである。
 関西にいる責任者の意向を無視して関東から“開戦”に導こうとした、という点では相楽も小栗も似たようなものだが、奇しくも両者ともに、
(戦さをやれば自分たちが勝つに決まっている。その機会は今しかない)
 と思い込んでいた。
 しかしながら相楽と西郷の齟齬(そご)は許容範囲内であったとしても、小栗と慶喜の齟齬は想像を絶する乖離(かいり)だったに違いない。
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