第55話 赤報隊と高松隊(三)

文字数 4,827文字

 相楽が京都へ行っている頃、元御陵衛士の新井忠雄が松尾山から岐阜へ向かった。
 新井は、かつて油小路事件があった頃に江戸から京都へ戻る途中、四日市で自分の女房と奇跡的な再会を果たした、あの男だ。

 新井が岐阜へ向かったのは水野弥太郎と会うためであった。
 弥太郎は以前から御陵衛士と親密な関係をつづけていた。かつて弥太郎の窓口となっていたのは藤堂平助だったが、その藤堂は油小路で(たお)れた。それで今回、藤堂の代わりに新井がやって来たのだ。
 藤堂は生前、弥太郎から、
「もし幕府との戦さが始まったら、百人以上の兵を引き連れて京へ駆けつける」
 との言質をもらっていた。その話を新井は藤堂から聞かされていた。
(今がまさに、その時である)
 と新井は考えた。
 それに岐阜のすぐ南には中山道の要衝、加納城と加納宿がある。近江平定の次は関ヶ原、垂井(たるい)を抜けて美濃平定に取りかかることになろう。そのためには岐阜の有力者である弥太郎が大きな力となるに違いない。
 そのように考えて新井は弥太郎の屋敷を訪問したのだった。

 ところがこの時、たまたま勝蔵も弥太郎を訪問していた。
 水野家の書斎で弥太郎と勝蔵が相談していたところへ、ちょうど新井がやって来るかたちとなった。
「これはどうも新井さん。このたびの伏見と鳥羽でのご活躍、まことにおめでとうございます」
 と弥太郎と勝蔵が新井に祝意を述べた。
 勝蔵も弥太郎と同じく、以前から高台寺へ通って御陵衛士と交流していたので新井とは面識があった。
「おお。池田さんもこちらにおられたとは、これは好都合だ。実はこのたび、我々は同志を募って松尾山で挙兵したのだが……」
 と新井は弥太郎と勝蔵に赤報隊結成の経緯を説明した。
 隊の結成にあたっては岩倉卿や西郷殿の了承を得ており、隊の旗頭(はたがしら)には綾小路卿が就任されているので新政府公認のしっかりとした隊である。それで、この隊を支えるために二人にも協力してもらいたい、という話だった。
 弥太郎は元よりそのつもりであったから二つ返事で了承した。
 かたや勝蔵は、逆に自分から申し出て参陣を頼み込んだ。
「新井さん。私も部下を率いて参陣してもよろしいでしょうか?」
「もちろん結構だ。いま我が赤報隊は一人でも多く手勢が欲しい。あなたのような剛の者に加わってもらえれば、こちらとしても心強い」

 勝蔵は生まれてこのかた、この時ほど嬉しい気持ちになったことはなかった。
(ついにこの時が来た!俺をさんざん追い回してきた幕府の武士どもを打倒する日が、ついに来た!しかもこの赤報隊に加われば、おそらく中山道を進んで甲州まで行くことになるだろう。そうなれば我が故郷(ふるさと)甲州に錦を飾ることができるに違いない……!)
 勝蔵はこの日、たまたま挙兵の相談をするために弥太郎のもとを訪れていたのだが、思わぬところで最良の結果を得ることになった。
 鳥羽伏見の結果を聞いて以来、勝蔵はこれからの身の振り方をどうするか、悩みつづけていた。
 子分たちを京都へ呼び寄せはしたものの、これからどうやって戦さに参戦するのか?何か良い方法はないか?とずっと模索していたのだ。
 勝蔵は薩摩・長州・土佐などの新政府諸藩と接触するツテを持っていなかった。
 いや、確かに土佐とのツテは山県小太郎と陸援隊を通じて多少の関係はあったのだが、その陸援隊は先月(十二月)そうそうに高野山で挙兵してしまったので参加する機会を逸してしまった。それにもともと高野山は自分にとって地の利がない。できれば自分は「東征」に加わって甲州方面へ向かいたい。が、どうすればその東征軍に加わることができるのか?その相談をするために弥太郎のところへ来ていたのだった。

 このあと三人は弥太郎の隊と勝蔵の隊が参陣する段取りを相談し、その準備ができ次第それぞれ赤報隊の陣中へ駆けつける、ということを取り決めた。相談が済むと新井は弥太郎から勧められた食事の歓待も遠慮して、あわただしく松尾山へと戻っていった。
 そして勝蔵も、久しぶりに戻ってきた水野家での滞在もそこそこに、京都へ取って返すことにした。
「水野の旦那。それでは私もこれからすぐに京へ戻って出陣の準備に取りかかります。今度お目にかかるのは赤報隊の陣中ということになるでしょう」
「いやはやまったく。こうして天朝様の軍勢にお供することができるとは、長生きはするものだ。わしらのような博徒が天朝様の軍勢に加わるなど、古今未曾有の出来事だろう。わしは年甲斐もなく武者震いしておる」
「藤堂さんが生きていれば、さぞかし喜んだことでしょうに。彼の分まで、我々がやらねばなりませんな」
 そう言って勝蔵は弥太郎のもとから辞去した。

 勝蔵は矢島町を発つにあたって、以前から弥太郎のところに残していた綱五郎を連れて帰ることにした。
 矢島町は長良川と稲葉山(金華山)に挟まれた地域にあり、ここから南へ少し行くと加納宿のある中山道へ出る。弥太郎の場合は中山道を西へ行って関ヶ原あたりで合流する予定なので大した距離はないが、勝蔵は一度京都まで戻って子分たちに出陣の準備をさせ、それから近江へ戻って合流するかたちになるのでけっこう大変だ。
「これで当分、稲葉山も見納めになるなあ」
 と綱五郎は、この男らしくもない感傷的なことを言った。しかし確かに、綱五郎は甲州を去って以来、ほとんどこの矢島町で生活してきた。ここは綱五郎にとって第二の故郷みたいなものだ。
「なあに、心配するな。赤報隊へ入ればすぐに美濃へ出陣することになるだろう。多分あっという間に戻って来ることになるぜ」
 勝蔵は歩きながら綱五郎に言ってやった。
「親分。戦さっていうのはどんなでしょうね?やっぱり俺たちがやってた出入りとは違うんでしょうね?」
「さあな。俺だって知らねえよ。やったことがねえからな。まあ、一、二度やってみりゃあ分かるんじゃねえか」
「服は何を着ていけば良いんでしょう?」
「それも分からねえ。とにかく天朝様の軍勢に加わるんだから、みっともねえ格好だけはよしとけ」
「だけど水野の旦那も軍勢に加わるとはねえ。こう言っちゃなんですが、あそこの連中は俺たちと違ってあまりケンカ慣れしてないし、水野の旦那もあまりキツいことは言わないからぬるま湯みたいなとこですよ、あそこは。だから俺も楽ができて好きだったんだけど」
「そいつは悪いことをしたなあ。じゃあ、これから水野の旦那のところへ戻るか?綱五郎」
「いやいや、とんでもねえ。せっかく親分のところに戻れたんだ。俺も親分と一緒に甲州へ連れてってくれ。それに戦さをやるのなら親分と一緒にやりてえ。水野の旦那の下で戦さをするのは、ちょっとおっかねえ」

 二日後、勝蔵は京都の白川家に戻ると子分たちに出陣の準備をさせた。といっても、多少見苦しくない服装を用意させ、あとは博徒同士の出入りの際と似たりよったりの武具を持たせる程度のことで、ほとんど身一つで陣中へ飛び込む感じだった。勝蔵はおよそ四十人の子分を引き連れて京都を出発した。
 一方、弥太郎はおよそ百人の子分を引き連れて岐阜を出発し、十五日に中山道の関ヶ原宿へ入った。この同じ日に赤報隊は松尾山を下りて進軍を始めていた。数日後には関ヶ原まで来る予定なので弥太郎たちはそれを待って合流する。翌十六日、赤報隊は彦根城の北東にある番場宿へ入ってここで宿泊。そして同日、京都から赤報隊を追いかけてきた勝蔵たちがその番場宿で合流した。

 勝蔵はさっそく新井のところへあいさつに行った。するとそこには、新井と一緒に三樹三郎はじめ顔なじみだった元御陵衛士の連中がおり、そこですぐさま二番隊の指揮下に入ることが決まった。
「意外とすんなり、あっしらのことを受け入れてくれましたね、親分」
「猪之吉。“親分”はよせ、と何度も言ったろう。品が良いの悪いの、なんて言えた柄じゃねえが、俺たちは天朝様の軍勢だ。あまり品が悪いと俺たちのことはともかく、天朝様に申し訳がねえ」
「すんません、親分……。いや、隊長……。えへへ。やっぱりどうも言いづらいなあ、隊長なんて。だけど、天朝様の軍勢といっても、思っていたほど重々しい感じはしませんね。この赤報隊は」
「そりゃあ、やっぱり、この赤報隊が“草莽(そうもう)”の軍勢だからだろう」
「ああ。それはあっしも……、いや、私も知ってますよ。“草莽”、それに“一君万民”。いよいよ我々草莽が立ち上がる時が来たってわけですね」
「お前はそういうことだけはよく知ってるんだよな、猪之吉」
「我々草莽が“世直し”をして、“一君万民”の世にできたら最高だなあ」

 この赤報隊は新政府軍といっても大藩の後ろ盾がある人間など一人もおらず、草莽、つまり庶民や在野の人間が集まった寄せ集めの軍隊だ。
 一番隊は相楽とともに江戸で浪士活動をしていた連中だし、二番隊の元御陵衛士も浪士に毛が生えたような存在でしかなく、三番隊には正規の藩士が少しいるといっても近江の小藩の藩士では大した力はない。
 敵地、すなわち幕府領や幕府の影響力が強い諸藩領へ先乗りとして乗り込んで行って偵察や説得工作をする、というのは命がけの仕事だ。幕府軍や諸藩軍が本気で襲いかかってくればひとたまりもなく打ち破られてしまうだろう。
 新政府軍の本隊は西日本の平定で忙しく、東日本へ兵を回す余裕がない。だから当面は、この草莽の軍隊である赤報隊に東日本での活動をやらせることにしたのだ。

 赤報隊は当初、京都の東を守らせるために立ち上げた部隊だった。けれども近江は意外とあっさり平定できた。このもう少しあとになると新政府軍は北陸道、東山道(とうさんどう)(中山道)、東海道の三道を通って東へ向かうことになる。北陸道の越前藩と東海道の尾張藩は元々(薩長のような倒幕派ではないとはいえ)新政府の一員として入っているから、それほど懸念する必要はない。
 当面の難敵は桑名藩と中山道の敵対勢力である。
 桑名藩主は、将軍慶喜の側近だった京都所司代の松平定敬(さだあき)だ。兄で京都守護職だった会津藩主松平容保と協力して幕府権力を守るためにここ数年ずっと尽力してきた。慶喜・容保・定敬の三人を指して「一会桑(いちかいそう)」などとよく呼ばれている(一は一橋慶喜の一である)。この三人は一蓮托生といっていい存在だ。ちなみに桑名の東隣りにある尾張の大御所徳川慶勝は、同じく容保・定敬の兄弟で「高須四兄弟」の長男である。
 それで、京都の新政府は赤報隊に対して桑名平定に向かうよう命じてあった。正規軍である東海道軍もすでに北伊勢を平定しながら桑名へ向かっている。赤報隊を桑名で東海道軍と合流させて(相楽にもそう命じたように)東海道軍の指揮下へ入れるつもりだったのだ。

 赤報隊は十七日に柏原宿で泊まり、そのあと「寝物語の里」の国境を越えて近江から美濃へ入った。そして翌十八日には関ヶ原宿へ入って弥太郎の隊と合流。この日はここで宿泊することになった。
 関ヶ原から南へ行けば桑名へ向かうことができる。ただし中山道の次の宿場である垂井宿の北西に、旗本の竹中家が陣屋を構える岩手陣屋がある。
 この竹中家は有名な戦国時代の軍師竹中半兵衛の流れをくむ旗本で、今回の鳥羽伏見の戦いでも幕府軍の総司令官(陸軍奉行)をつとめたのはこの陣屋の主、竹中丹後守(たんごのかみ)重固(しげかた)である。
 赤報隊としては当然、これを押さえなければならない。
 なにしろ相手は幕府軍の総司令官だ。激しく抵抗してくるだろう。岩手陣屋は関ヶ原からもほとんど目と鼻の先にあり、陣屋では幕臣たちが徹底抗戦を唱えているようだ、といった風の噂も聞こえてくる。

 そして翌十九日、赤報隊は岩手陣屋へ向かって進軍した。
 ところが、あにはからんや岩手陣屋からは何の抵抗もなく、あっさりと降伏してきた。
 竹中家の家老、児玉周左衛門という人物が苦心のすえに家臣たちを説得し、降伏に導いたという。竹中家は赤報隊に十数名の人員を差し出すなどして新政府への恭順を誓った。
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