第2話 甲府城と腕斬り増田(一)

文字数 4,695文字

 あれから九年。弘化(こうか)三年(1846年)である。
 幕府の土台を揺るがした天保飢饉や大塩平八郎の乱は過去の話となった。その間に水野忠邦の「天保の改革」があったが結局なんの成果もあげないまま失敗に終わった。むろん、その後ただちに水野は政権から引きずりおろされた。
 幕府の価値は、また下がった。株価に例えるなら大底といっていい。
 さらに海外からは「清国がアヘン戦争でイギリスに敗れた」という伝聞も届くようになった。といっても、この当時は現代のような情報化社会ではない。しかもいわゆる「鎖国」の時代である。海外の事を詳しく知る人間などごく一部に限られており、世間一般の人々は、二百年以上つづいた太平の世がこの先もずっとつづくと信じて疑わない。
 それで、下がりつづけた幕府の価値もいったんは底を打ち、そのあと小康状態を保つようになった。世の中は一応の静けさを取り戻し、人々はふたたび太平の眠りにふけったのである。
 その太平が、実は嵐の前の静けさであるとは、まだ誰も気づいていない。



 天高く馬肥ゆる秋。黒駒村の鎌倉街道を一人の青年が歩いている。
 小池勝蔵、十五歳になった。
 すでに元服は済ませており、完全ではないが前髪も落としている。
 かたや体のほうは、とっくに成人している。大柄で、並みの大人よりよほど大きい。
 顔も相撲取りを彷彿とさせるほどふっくらとしている。前髪を完全に落として力士の髷を結えば、力士として人に紹介しても通用するほど堂々たる体格だ。
 実際、勝蔵は相撲を取るのが好きだった。ただし、今は相撲よりも剣術に入れ込んでいる。今も近所の剣術道場へ向かっているところだ。
 関取になるのも悪くはないが、それより剣術を身につければ、いずれ武士になる道が見えてくるかもしれない。
 雲をつかむような淡い夢である。が、そんな夢を抱いてもおかしくない年頃である。

 このような浮ついた夢を抱ける立場の人間は、身分制度が厳しいこの当時、それほど多くはいない。
 名主の次男である勝蔵だからこそ、こういった夢のような野望が抱けるのだ。
 勝蔵は八代郡上黒駒村若宮の名主、小池嘉兵衛の次男である。この場所は現在の地名で言うと笛吹市御坂町の一部にあたる。
 名主ということはむろん、この地域一帯の名望家である。ただし勝蔵は次男なので跡継ぎにはなれない。嘉兵衛の跡継ぎは一つ年上の長男、三郎左衛門である。
 勝蔵は跡継ぎになれないことを、うらんではいない。いや、むしろ家を継がずに済むことを幸運とさえ思っている。
 農業は、どうも自分の性分には合わない。もちろんこれまでずっと家の農業を手伝ってきたが、自分はもっと胸躍るような世界で生きてみたい。幸い自分はそれを選べる立場にいる。その自分の進むべき道がどのようなものなのか、今はよく分からないが「武士になれるものならなってみたい」そう漠然と夢想して、今は剣術に励んでいる。

 勝蔵は塾に着いた。のちに振鷺堂(しんじゅどう)と呼ばれることになる塾で、同じ黒駒村の中にある。彼はここで学問と剣術を学んでいる。
 塾を主宰するのは武藤外記(げき)藤太(とうた)という父子である。外記四十八歳、藤太二十一歳。いまは息子藤太が若先生として勝蔵を指導している。
 武藤家もまた、この地域一帯の名望家である。鎌倉街道から御坂の山中へ入って行くと神座山(じんざさん)という山があり、山頂へ至る林道の途中に檜峯(ひみね)神社がある。別名、薬王権現。武藤家は代々、この檜峯神社の神主をつとめてきた。
 武田信玄の頃には信玄の軍団に参加したこともある「兼武神官」であったが、徳川幕府になってからも神主の地位はそのまま踏襲された。本能寺の変の直後に甲州で起こった争乱の際、武藤家が「黒駒の合戦」で徳川方の鳥居元忠の軍勢に加わって北条軍を撃破した功績が認められたのだ。以来、幕府から檜峯神社の社領を安堵されている。武藤家は寺社奉行の管轄下にあり、数年ごとに出府して江戸城で将軍拝謁に参列する由緒ある家柄である。
 が、神主である以上、当然尊王意識、つまり天皇や朝廷を尊崇する意識が強い。

 勝蔵が塾の門をくぐると、庭で子どもたちが遊んでいた。まだ寺子屋で学ぶ年齢に達していない幼児たちが数人、鬼ごっこをしていた。
 勝蔵は彼らに気がついて、頭でも撫でてやろうと思って近づいていった。
 すると、子どもたちは「キャー!」と叫び声をあげて逃げていった。
 子どもたちは、容貌(ようぼう)魁偉(かいい)な勝蔵に恐れをなしたのだ。
 確かに勝蔵の顔はいかつい。眉は太く、目つきも鋭い。口元はきつく引き締まっており、もみあげも濃い。そのうえ体格も力士なみである。節分の鬼の役にはうってつけの外見であろう。「泣く子も黙る」どころか一目散に逃げだす。
 だが、泣きたくなるのは勝蔵のほうであった。
 慣れているとはいえ、人の姿を見ただけで逃げ出すとはあまりに酷いではないか。こんな姿に産んだ親をうらみたくもなる。
 けれども、一人だけ逃げずに残っている女の子がいた。
「お前は、お八重か?」
 と勝蔵が聞くと、女の子は黙ってコクンとうなずいた。
 お八重はこの武藤家の娘で、藤太とは歳の離れた妹である。このとき六歳。それで勝蔵は以前からお八重のことを知っている。
「久しぶりだなあ。しばらく見ないうちに大きくなったもんだ。よし、昔のように高い高いしてやろう」
 そう言って勝蔵はお八重を抱きえかかえようとした。が、彼女は拒絶するように、首を振りながら身を引いた。
(そんなことされたら恥ずかしい)
 という感情が生じはじめる年頃であった。
「おっ?そうかそうか……。じゃあ、これをやろう。うまいぞ」
 といって勝蔵は懐から袋と懐紙を取り出した。そして袋の中にあった干しぶどうをザラザラっと懐紙に落とし込み、懐紙ごとお八重に手渡した。
「みんなと仲良く分けて、食え」
 勝蔵が小腹のすいた時のために持ち歩いている干しぶどうのお菓子だ。それを持って勝蔵は、お八重の前でニッコリと満面の笑みを浮かべている。
 お八重は、干しぶどうなど食べ飽きているので別に食べたいとも思わないが、この勝蔵という大男の笑顔が好きであった。普段は鬼のように恐ろしい容貌をしているのに、笑うと、えもいわれぬ優しい表情になる。この笑顔にお八重は、幼いながらも男の魅力を感じた。それで、その干しぶどうを笑顔で受け取った。
「いつかお八重が大きくなったら『月の雫』を食わせてやる」
 勝蔵はそう言い残して道場のほうへ歩いて行った。ちなみにこの『月の雫』とは、江戸時代後期に甲州で作られるようになった、ぶどうを白砂糖でくるんだ菓子のことである。当時、甲州名菓として有名であった。甲州がぶどうの名産地であることは、むろん今も昔も変わりはない。


 敷地の一角に剣術道場があり、そこでは数名の塾生たちが藤太の指導のもと竹刀剣術を学んでいる。
 竹刀剣術が世に普及し出してからまだそれほど経ってはいないが、甲州の地でも少しずつ流行り始めていた。それ以前の剣術は木刀を使って形稽古をしたり剣術の精神性を学ぶことが中心であった。
 木刀では実際に相手に打ち込む稽古はできない。木刀を本気で打ち込めば相手は大ケガするか、下手すれば一発で死ぬ。それで、実際相手に打ち込んでもケガしないように考案されたのが「防具を付けて竹刀で打ち合う」竹刀剣術である。これを普及させたのは北辰一刀流の千葉周作の功績が大きい。この当時、周作の玄武館は江戸で盛況をきわめていた。
 しかしながら、この竹刀剣術に熟達した剣士が甲州には少ない。若先生の藤太もあまり上手ではない。最近では勝蔵の腕前に押され気味である。もちろん勝蔵の技術も未熟なのだが、力まかせで荒っぽく振り回すだけでも、ここでは十分通用するのだ。
 打ち込み稽古が終わったあと、藤太が勝蔵に語りかけた。
「勝蔵、すっかり腕をあげたな。ひょっとすると、もう俺よりお前のほうが強いかも知れん」
「先生は学問ばかりやってるから、腕が(なま)ったんじゃないですか」
「こいつ、生意気いうな。ハッハッハ。しかしお前のほうこそ剣術ばかりやってないで、少しは学問のほうにも力を入れたらどうだ?」
「俺は多少読み書きができれば、それで十分ですよ。難しい学問は眠くなるから、俺には無理だ」
「だが武士になりたいのなら少しは学問を身につけておかんとな。こんなふうに言うのも何だが、あまり賭場(とば)などに入りびたったりせんようにな」
 このお説教には勝蔵も苦笑いするしかない。
 確かに勝蔵は元服を済ませてから何度か賭場に顔を出すようになっている。しかし心の中では、
(そんなこと言ったって、あんたの家こそ、ここら辺じゃ一番大きな賭場じゃないか)
 と藤太の偽善を責めている。とはいえ、それを口に出すつもりはない。「そんなことを言っても無意味である」とお互い分かっているからだ。

 この近くに「八反(はったん)屋敷」という武藤家の本宅があり、そこが賭場になっている。八反田(はったんだ)という土地にあるため、そう呼ばれている。千坪の広い屋敷で、周囲に立派なナマコ壁を張り巡らせている。黒駒は高地にあるためこの屋敷は二里(約8キロ)離れた石和の町からもよく見えたという。
 言うまでもなく、この当時も賭け事は違法で、賭場はご禁制である。
 が、先述の通り、武藤家は寺社奉行の支配下にある。代官所とは「支配違い」のため代官の手入れは受けない。この当時、寺や神社でよく賭場が開かれたというのは、寺社が町奉行とは違って寺社奉行の支配下にある「治外法権」の場所だったからだ。今でも賭け事のマージン(手数料)を取るのを時々“テラ銭”などと言ったりするが、それは江戸時代に寺でよく賭場が開かれ、博徒たちがそこでテラ銭を稼いでいたからである。

 藤太自身は、自宅にあるこの賭場のことをあまり良く思っていない。
 風紀上よろしくないし、そもそも賭場はご禁制だ。テラ銭という収入が多少あるにしても、武藤家は代々受け継いできた広大な檜峯神社の社領があり、それほど金に不自由はしていない。
 しかしこの当時は、現代と違って娯楽が非常に少ない。人々は娯楽に飢えているのだ。
 この長年の慣習として開いてきた賭場をいきなり閉じて、人々から娯楽を取り上げることはできない。そこで「不幸な境遇に叩き落される人」が何人か生まれるとしても、それを「必要悪」として認めざるをえない。人々はずっとそうやって生きてきたのだから。
 という諦念(ていねん)のもと、藤太は自宅の賭場を容認している。

 道場での稽古が終わり、塾生たちは帰り支度をはじめた。帰り際に藤太が勝蔵に声をかけた。
「今夜もウチの賭場へ行くのか?勝蔵」
「いや。明朝、甲府へ行くから、今日はおとなしくウチへ帰ります」
「そうか。ところで、今度父上と一緒に江戸へ出たら千葉道場に顔を出してみようと思ってるんだ」
「へえ~、あの有名な千葉道場に?」
「ああ。それで、いずれここにも出稽古に来てもらいたい、と千葉先生にお願いするつもりだ」
「そんな剣の達人がここへやって来るんなら、ぜひ一度お手合わせ願いたいもんだ」
「もし上手くいけば、剣術の修行に有益なだけでなく、武士の心構えを知る上でも、お前にとって何か益するところがあるだろう」
「でも、江戸の大先生がこんな山奥まで来てくれるのかなあ?」
「まあな。なかなか難しいかも知れん。しかし千葉周作先生はダメでも、弟の定吉先生か、せめて甥の重太郎さんだけでも来て欲しいと、そんなふうにお願いするつもりではいるんだが……」
「まあ、期待しないで待ってますよ。もし本当に千葉道場の人が来たら、その時は絶対、俺にも声をかけてくださいよ」

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