第65話 次郎長との再会

文字数 7,567文字

 相楽総三が下諏訪で死に、近藤勇が甲州勝沼で惨敗し、小沢一仙は甲府で死んだ。
 まだまだ激動の時代がつづいている。
 一仙が刑死したのは、新政府軍による江戸総攻撃の予定日とされていた三月十五日の前日だった。
 その頃まさに、東海道軍は品川に、東山道軍は板橋に着陣を済ませて江戸総攻撃の準備を済ませていた。翌日には号令一下(いっか)、全軍が江戸府内へ攻め込む構えである。
 しかし西郷・勝会談によって攻撃は中止と決定。
 そして四月十一日、江戸城が無血開城となった。

 このころ勝蔵は京都で軍事教練を受けていた。
 赤報隊の二番隊と三番隊は、赤報隊に付きまとっていた悪い印象を払拭するという狙いもあって人選をやり直し、さらに薩摩藩がイギリス式の軍事教練をおこない、隊名も「徴兵七番隊」という新しい名前に改めた。
 勝蔵たち黒駒一家の連中は、どこをどう評価されたのかは謎だが、とにかくこの人選に合格した。柄は悪くとも腕っぷしだけは強い連中だから、その点を評価されたのかも知れない。
 以前は勝蔵の上官だった三樹三郎、新井、篠原たちは牢獄から釈放されたあと、別の隊へ回されたのでこの隊の指揮官は彼らの同僚だった阿部十郎が引き継ぐことになった。
 そして隊の総裁だった綾小路俊実も海軍先鋒へ回されて横浜へ赴くことになった。ちなみに彼はこのとき実家の大原家へ戻り、名前も大原重実(しげみ)と改めている。

 新しい隊の総裁についたのは四条隆謌(たかうた)という公家である。
 この人物は綾小路・滋野井・高松などとは違って「五卿」の一人だったというだけあって、なかなか優秀な人物だった。
 五卿とは五年前の「八月十八日の政変」の際、京都から長州へ下っていった「七卿落ち」中の五人である。途中で一人が病没、一人が逃亡したので五卿となった。
 京都のことしか知らない一般の公家と違って、「七卿落ち」の辛酸をなめた彼らは世間の波にもまれたせいか、のちにしっかりと仕事をした人物が多い。この三条実美たち五卿は前年暮れの王政復古が成った直後に大宰府から京都へ戻って来ていた。

 そしてこのころ、武藤外記・藤太父子も京都へ出てきていた。
 身内同然の一仙が新政府から罰せられて斬首刑となってしまったことに対する弁明と、武藤家が持っている社領存続の陳情を新政府にするため、二人は上京してきたのだった。
 五月五日は梅雨の大雨だった、と外記の日記には書いてある。五月五日といっても現代の暦では六月二十四日で、まさに梅雨の時期にあたる。
 大雨で教練も中止となった勝蔵と猪之吉が藤太の宿を訪れた。外記はたまたま外出中で留守だった。
「ながらくご無沙汰をしておりました、若先生」
 と勝蔵があいさつをした。猪之吉は前年の暮れに藤太と会っているが、勝蔵が藤太に会うのは三年ぶりだ。
「本当に見違えるほど立派になったなあ、勝蔵……、いや、もはや勝馬殿とお呼びせねばなるまい。四条卿の親衛隊長になったと聞いているぞ。実にめでたいことだ」
「すべて武藤家の両先生のおかげです。先生からの白川卿へのご推挙がなければ、今の自分はありません。ただ、官軍の隊長といってもまだ一度も(いく)さに出ていないので、あまり自慢にはなりません。それと、なんとも申し上げづらいですが、小沢殿の件は、実に残念なことになりました……。私が彼と加納宿で会ったときは、まさかあんなことになるとは思いもしませんでした……」
「あれが彼の定めだったのだろう。すべてが急ぎ過ぎだった。船のことも、運河のことも、そして今回のことも。宮大工のまま地道にやっていれば、と、今さらいっても仕方がないことだが……」
「私がいた赤報隊の相楽という人も、そうでした。急ぎ過ぎて、かえって罰をこうむってしまいました」
「うむ。こちらでいろんな勤王家の人々と会って、その話も詳しく聞いた。実に惜しい人を亡くしたものだ」
「それで、先生方にも何かお(とが)めがありそうなんですか?」
「おそらく雅楽之助(うたのすけ)の件で我が家がお咎めを受けることはなさそうだ。ただし、檜峯(ひみね)神社の社領はお召し上げになる公算が強そうだ……。ふふふ。愚か者だと思うだろう?私と父上のことを。我が家の社領は幕府から安堵されていたのに、我々はその幕府を必死になって倒し、そのあげく領地召し上げとは。ハハハ。こんなバカな話はない。だが、私は父上と違ってこの件をそれほど悲観してはいないよ。天朝様のために領地を献納するのだから、これを喜ばんでどうする?」
「まさか、八反屋敷まで取り上げられはしないんでしょう?」
「ああ、お召し上げになるのは檜峯神社の社領だけだ。それぐらい我慢すれば良いのさ。私はこれから雅楽之助の遺志を引き継いで、岩渕河岸(かし)から蒲原(かんばら)へ運河をひく仕事をしようと思っている。そうすれば、きっと天朝様の治世に少しはお役に立てるだろう。雅楽之助のためにも、私は必ずこれを成功させる」

 ずいぶん前に触れたことがあるが、甲州の鰍沢(かじかざわ)から駿河の清水までは富士川水運によってつながっており、その途中、岩渕河岸から蒲原までは陸運業者が担っている。その陸運部分を運河によって水運化するのが藤太の計画である。一仙の計画した琵琶湖運河計画より規模はかなり小さいが、一仙が生前、藤太に進言していた案だった。
 この計画は四年後(明治五年)に藤太を筆頭とした甲州の有志が計画を立ちあげ、明治八年にこの運河、すなわち「蒲原新水道」が完成する。これにより富士川水運はさらに賑わいを増すことになる。が、その繁栄はあまり長くはつづかなかった。鉄道が各地に開通することによって富士川水運自体が、その役目を終えることになるのである。
 ちなみに武藤外記はこの年の八月、富士川の上流にあたる巨摩郡江草村の川で船の転覆事故にあって溺死する。一時は「敵対勢力による暗殺」との噂も流れたが、どうやら事故死であったらしい。
 
 それから藤太は神社のお守り袋を二つ持ってきて、勝蔵と猪之吉に手渡した。
「これはお八重から預かってきたお守りだ。二人に会うことがあったら渡してほしいと頼まれていた。二人とも、無事に甲州へ帰ってくるんだぞ」
 勝蔵はお八重の名前を聞いて、懐かしい甲州のことをありありと胸中で思い浮かべた。
 かたや猪之吉はそのお守りを受け取ると、勝蔵以上に胸の高鳴りをおぼえた。そして藤太に聞いた。
「お八重殿の病状はその後、どうなりましたか?」
「このまえ猪之吉が会いに来てくれてから、そのあとすっかり良くなった。まったく猪之吉のおかげだよ。これからも、妹のことをよろしく頼む」
 藤太はお八重から猪之吉との関係について、あらかた聞いているらしい。
 猪之吉は顔が真っ赤になった。
 その様子を見て勝蔵は、なんとなく猪之吉とお八重の関係について察しがついた。
 まったく喜ばしいことだ。
 と心が温まる反面、戦さを前にしてあまり情に流されるのも良くない、と思って気持ちを引き締めた。

 四条隆謌(たかうた)率いる新政府軍は五月十八日、京都を出発して東海道を下っていった。
 この軍勢は諸藩の兵と、勝蔵もいる徴兵七番隊などで構成されている。
 当初は甲州への鎮撫に向かう予定だった。もちろん勝蔵はそれを聞いて欣喜(きんき)雀躍(じゃくやく)としたのだが、そのあと甲州の平定はほとんど完了したとの報告が届き、甲州行きから駿河行きへと変更になった。
 勝蔵はがっかりした。
(せっかく甲州へ三年ぶりに帰ることができると思っていたのに……。しかも変更先が、あの次郎長がいる駿河とはな。まったく、奴とはよっぽどの腐れ縁なんだろうぜ)

 数日後、勝蔵たちは尾張に到着した。
 勝蔵は兄弟分の雲風亀吉がどうなったのか、それが気になった。
 玉五郎に調べさせたところ、すでに亀吉も新政府軍に参加して数日前、尾張から出陣して行った、とのことだった。
 亀吉は尾張の博徒近藤実左衛門と共に集義隊という民兵部隊を立ちあげ、新政府軍に加わっていた。これにより亀吉の過去の罪は問われないことになり、さらに尾張藩から苗字帯刀も許されて「平井亀吉」と名乗るようになった。五月十七日に名古屋から出陣していき、このあと北越戦線に加わることになる。
 余談ながら、亀吉は明治になっても平井には帰らず、名古屋で一家を構えることになる。そしてこの集義隊に加わった博徒の一部が、のちに板垣の「自由党」と結びついて「名古屋事件」という政府転覆事件を引き起こす。この事件も自由民権運動の一環と呼べるかどうか、ちょっと微妙ではあるが、一応その一環ということになっている。少なくとも今の日本人が漠然と思っている「自由民権運動のイメージ」とは相当次元の異なる暴挙であろう。その前後には加波山(かばさん)事件、秩父事件、大阪事件なども起きている。ちなみに秩父事件の秩父困民党の総理・田代栄助も元は侠客である。

 それから四条率いる新政府軍は三河、遠江と過ぎて駿府城に入り、ここでしばらく駐屯することになった。
 江戸では五月十五日に「上野戦争(彰義隊戦争)」があった。この戦争は一日で終わって旧幕府の残党は江戸から一掃された。
 そして勝蔵たちがいる駿府の少し先でも戦争があった。五月二十日に旧幕府遊撃隊の人見勝太郎や伊庭八郎、また元請西(じょうざい)藩主の林忠崇(ただたか)などの隊が箱根の関所で小田原藩兵と交戦。さらに二十六日にも箱根山崎で交戦し、旧幕府側は敗退して熱海から房総半島へ逃走した。そういった情報が駿府城にも届いた。
(ううむ、惜しかった。もう少し早く進軍していれば、俺たちの部隊も箱根の戦いに参戦できていたかもしれないのに……)
 と勝蔵は悔しがった。が、この四条の軍勢は遠からず、彼ら遊撃隊と東北の戦場で顔を合わせることになる。

 駿府の宿舎で綱五郎が勝蔵に尋ねた。
「親分……、いや、隊長。どうも、この駿府にいると次郎長とケンカしてた頃のことを思い出して、つい親分と呼んじまうなあ……。それで隊長、今ごろ次郎長はどうしているでしょうね?」
「さあな。だが聞くところによると、以前は幕府の目明しだった次郎長も、今はさっさと新政府の目明しになって東海道の警備にあたっているらしい。まったく目鼻の効く野郎だぜ。もっとも最初は新政府の目明しになるのを嫌がってたって話だがな」
「それで親分……、いや、隊長。次郎長をこのまま放っておくんですか?子分……、いや、隊士たちも、むかし次郎長にやられた分を今こそやり返してやる!って息巻いてますよ」
「気持ちは分かる。だが、綱五郎よ。絶対に部下を引き締めておけよ。もしここで隊士たちが何か騒ぎを起こしたら、必ず俺たちも水野の旦那のようになっちまうぞ」
「はい……」
「それに相楽さんや小沢さんの例もあるしな。今は戦さのことだけ考えておけ」
「だけど、逆に次郎長や大政が俺たちを放っておきますかねえ?」
「手を出すわけがねえさ。あいつはずる賢い野郎だからな。官軍の一員となった俺たちに手を出せばどうなるか、あいつだって分かっているだろうよ。まあ、それでも襲いかかってくるんなら、そいつは俺にとって願ってもねえことだ。こっちから手は出さねえとしても、向こうから来てくれるんなら、遠慮なくたたっ斬ってやれるからな」

 駿府は天領(幕府領)であった。
 幕府が倒れたあと、旧幕臣や新政府を憎む不平分子がこの駿府周辺をうろついている、という情報がこのころ流れていた。
 少し前までは東征大総督・有栖川宮熾仁(たるひと)親王の部隊がここを押さえていたのだが、今は江戸城に入っている。その代わりとして、四条の軍勢が駿府に入ってきたのである。
 ちなみにその有栖川宮の参謀だったのが西郷吉之助で、相楽が中山道で活動していたころ、西郷はずっと東海道で従軍していた。つまり西郷は相楽の死にまったく関与しておらず、「西郷が相楽を謀殺した」などというのはまったく荒唐無稽な陰謀論である。
 また益満休之助はこの少し前の上野戦争で戦死しているが、
「薩摩藩邸の浪士による江戸攪乱(かくらん)工作の責任を益満におっかぶせた上で抹殺するために、西郷が激戦地へ送りこんだのだ」
 などというバカげた陰謀論もあるらしい。しかし西郷の手紙の中に「負傷した益満をなんとか助けてやって欲しい」といった記述もあり、この陰謀論もまったくの妄想である。
 そしてもう一人の伊牟田尚平は、このしばらくのち、何をとち狂ったのか商家に強盗として押し入り、その罪によって死刑となる。やはりこれも、西郷とはまったく関係がない。

 駿府のことに話を戻そう。
 このころ浜松藩の家老伏谷(ふせや)如水(じょすい)という人物が駿府に入り、町奉行のような役に就任して治安管理にあたっていた。
 この混乱した社会状況で町の治安を維持するのはなかなか大変だ。そこで、博徒を目明しにして町を取り締まらせる、つまり「二足の草鞋」を履かせるのは幕府時代からの常套手段であり、伏谷はこのあたりの有力者である次郎長に目をつけた。そして伏谷は次郎長を駿府に呼び出して申し渡した。
「この国事多難の折り、武士だ官軍だと偽って悪事をはたらく者が少なくない。しかも駿府は幕臣が多く、いまも不穏な状況にある。もし反乱などが起これば憂うべき事態となろう。よって、そのほうに探索方を命ずる。博徒であった過去のことは反省し、これよりは天朝様のためにご奉公せよ」
 これに対して次郎長が答える。
「恐れ入りますが、そいつはご勘弁願いましょう。私どものような卑しいヤクザ者につとまるお役目じゃございません。どうか他の者にお命じください」
 こうして次郎長は新政府からの命令を断った。
 確かに次郎長はどちらかと言えば徳川びいきの人間だ。それで徳川家を慕うあまり、新政府からの命令を断ったのだ。
 というわけでは多分、なかったであろう。
 次郎長の自己防衛本能は天性のものがある。その天性の嗅覚が、
(いくら御一新になったとはいえ、新政府にあまり深入りし過ぎると後でまずいことになるかもしれない)
 と感じ取ったのだ。つまり新政府とも旧幕府とも一定の距離を置いたほうが、ひとまず安全だろう、と判断したのである。
 見事な処世術といっていい。
 なまじ学問や理念などがあると小難しいことを考えたあげく、自ら生き延びる道をふさいでしまう、という事がよくありがちだが、生存本能だけで生きている次郎長のような男は、その点の判断に迷いがない。

 が、伏谷もそう簡単には次郎長を逃がさない。配下の小池分作という男を呼び寄せた。
 次郎長は驚かざるをえなかった。その男は最近清水で足袋(たび)売りの行商人として何度も次郎長の屋敷へやって来た男だったのだ。そして男は次郎長や大政たちから次郎長一家の「過去の武勇伝」すなわち数多くの殺人・暴力事件を聞き出していたのだった。
 小池はそれらの事件をすべて文書にまとめてあり、その文書を見ながら一つ一つ朗読し始めた。その横で伏谷がニヤリと笑みを浮かべて再び次郎長に申し渡した。
「よいか、次郎長。このお役目を引き受けなければ、これらの罪状によって貴様の首は飛ぶのだ。これからは天朝様の世だ。貴様もしっかりと励まねばならぬぞ」
 次郎長は大汗をかきながら伏谷に対して平伏し、それから答えた。
「か、かしこまりましてございます。私の罪状は確かにその通りでございます。……なれど、恐れながら、そのうち二つだけは間違っております」
 などと言い訳しつつも結局、次郎長は探索役を引き受けたのだった。
 とはいえ、これは次郎長にとってそれほど悪い話ではなく、勝蔵や亀吉と同様に過去の罪状は帳消しとなり、しかも二本差しの特権も与えられたのだから本来、万々歳といったところだ。ただし次郎長はこれ以上、新政府に深入りすることはしなかった。

 上野戦争で江戸の旧幕府勢力を一掃した新政府は、ここに改めて「徳川家の駿河移転。新石高は七十万石」という徳川処分案を公表した。五月二十四日のことである。
 これにより、田安家の亀之助(六歳。のちの徳川家達(いえさと))が徳川家当主となって駿府へ移り住むことになった。
 ということで、四条の軍勢が駿府に留まる理由もなくなり、勝蔵たちは江戸へ向かうために再び東海道を東へ進んでいった。

 駿府の次は次郎長の地元の江尻宿である。
 この駿河における勝蔵と次郎長の「劇的な再会」について、天田愚庵の『東海遊侠伝』では、要約すると次のように書いてある。

 官軍の隊長となった勝蔵は伏谷に対して「次郎長は関東の幕府勢力と通じている賊徒だから捕まえるべきだ」と追及した。それを伏谷が次郎長に伝えたところ次郎長は激怒して「勝蔵こそ甲州の大悪党だ。自分はかつて幕府から出された勝蔵の手配書も持っている。奴こそ捕まえるべきだ」と反論した。
(※幕府時代の罪は次郎長自身も御一新のおかげで不問にされているのに、それを持ち出すことの矛盾を何とも思わないのが次郎長らしい、とは言える)
 そして次郎長は、伏谷が勝蔵を捕まえないのなら自分が子分数百人を率いて勝蔵を捕まえてやる、と言い張った。官軍の隊長である勝蔵に対してそのような事件を起こせば伏谷の責任は重大である。そこで伏谷は必死で勝蔵を説得し、その結果、勝蔵は馬を降りて、官軍の立派な服装も脱いでこそこそと逃げるように通り過ぎて行った。
 ということになっている。

 このことについて子母澤寛は『富嶽二景』という勝蔵を主人公にした小説のなかで次のように書いている。以下、引用。
「これ迄の『次郎長ばなし』は、勝蔵が次郎長の威力に怖れて、途中馬を()りて小者の風態に化けてこそこそ通ったとか、わざわざ裏街道を廻り道したとか云うが、馬鹿をいっちゃあいけません。いやしくも錦の御旗をかかげて、肩に錦布(きんぎ)れをひらひらさせてぴーひゃらどんどんとやって来る鎮撫使(ちんぶし)の親兵隊長、次郎長どころか鬼でも(じゃ)でも怖れるもんですか」

 また、長谷川伸の『相楽総三とその同志』からも以下に引用する。
「講談小説の黒駒の勝蔵と実際の勝蔵とではひどい違いである。(中略)この四条少将の率いる七番隊と行を共にした四条少将直属の小宮山勝蔵は、前にもいったが黒駒の勝蔵という、清水の次郎長の伝記作者が口を極めて罵倒する甲州の侠客で、相楽総三等の計画した甲州占拠策の同志武藤藤太の父振鷺堂外記の教育を受けたもの、随って世間に伝わっている次郎長対勝蔵の元治元年駿府一件なるものは、ひどい誤謬である」

 むろん勝蔵は次郎長など相手にせず、新政府軍の一人として堂々と駿河を通り過ぎた。
 そして次郎長も勝蔵に手を出すことはせず、黙って新政府軍の通過を見送った。
 勝蔵たちはこのあと箱根も越え、数日後、江戸に入った。江戸での駐屯地は桜田の彦根藩邸である。
 四条の軍勢はどの戦地へ向かうかなかなか決まらなかったが、七月に入ってようやく東北戦線の太平洋側へ回ることが決まった。
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