第10話 黒船来航と新島事件(二)

文字数 5,675文字

 このペリーの黒船来航は、勝蔵にとってはそれほど大きな事件ではなかった。また、内陸にいる他の甲州人たちにとっても、それは同様である。いや、厳密にいえば、この事件は幕末の日本人全体に大きな影響を与えるので、本来、まったくの無関係とは言えないはずである。

 ところが、この事件の裏側で、勝蔵も含めた多くの甲州人に大きな影響を与える事件が起こっていた。

 ペリー来航から五日後。すなわち六月八日。
 幕府はペリーに、
「幕府の法令通り、長崎へ回れ」
 と言い、ペリーは幕府に、
「ふざけるな。そんな遠くまで行けるか。ここで国書を受け取らないのなら、力ずくでも江戸城へ行くぞ」
 と言って両者が黒船上で激しい外交交渉をおこなった結果、翌九日にペリーが久里浜に上陸して国書を渡すことが決まったその日、そういった慌ただしい交渉がおこなわれている浦賀から百キロほど南にある新島で、事件が起きた。

 二年前の四月に新島へ流された竹居安五郎が、流人仲間六名と共謀して島から脱走したのだ。いわゆる「島抜け」である。
 むろん失敗して捕まれば打ち首獄門の大罪で、見張りも厳しいため「島抜け」に成功した者などめったにいない。

 安五郎は名主の息子なので島への仕送りは比較的豊富で、博徒には不似合いな書籍まで数冊持ち込んでいた。他の流人にくらべれば生活レベルはかなりマシなほうだ。
 とはいえ所詮流人は流人で、この狭い島の中で一生、無為に過ごさねばならない。島民二千人中、流人は約百人で、当然ながら犯罪者として厳しく監視され、また差別もされている。
 このようにみじめな環境で朽ち果てるなど、安五郎に我慢できるはずがなかった。彼は「必ず甲州へ戻って復権してみせる」という野望をずっと抱いていた。
 そして前年の十月、丑五郎(うしごろう)、貞蔵、角蔵という三名の流人仲間が安五郎に島抜けの相談を持ちかけてきた。
 甲州で博徒の大親分だった安五郎の器量を見込んで、島抜け作戦の指揮をとってくれるよう頼んできたのだ。安五郎は歳も四十三と(あぶら)がのっており、そのうえ知恵と度胸もある。それで彼らから「島抜け一味の親分となってもらいたい」と期待されたのだ。
 もとより「機会があれば島抜けしてやる」と思っていた安五郎に否やはない。
 そのあと彼らは島抜けの機会をじっと探っていた。

 ちなみにこの新島は海防上の要地にある。
 ペリー艦隊が浦賀へ来る時、新島と伊豆半島の中間を通っており、この水域は江戸湾の玄関先のような位置にある。浦賀にアメリカ艦隊が来訪したとなれば、新島一帯も緊急事態、つまり外国船の侵入にそなえなければならない。
 伊豆七島を管轄する江川英龍は、
「島にあまり流人を多く置くと、外国船の侵入の際、外国人が流人に反乱を起こさせて島を占拠する恐れがある」
 と幕閣に上申していたぐらい、新島は海防上の要地なのだ。
 ということで当然、新島にも「外国の艦隊が浦賀に来たので、新島もその襲来に警戒せよ」という連絡が来た。

 安五郎は、これを好機と捉えた。
(今、島を脱出して伊豆半島へ向かうと、外国船襲来にそなえて沿岸一帯の警備が厳しくなっているかも知れない。しかし逆に、浦賀に警備が集中し、他は手薄になっている可能性もある。ここは一か八か「他は手薄になっている」の目に、勝負を賭けてみようじゃねえか)

 それでこの六月八日の夜、以前から立てていた計画を実行に移した。
「まず名主の家を襲い、鉄砲を奪う。それを使って水夫を脅し、船を操縦させて島から脱出する」
 という作戦である。
 この頃、島抜けの面子は以前より三人増えて総計七人となっていた。

 この日の亥の刻(夜十時)、七人は名主の家を襲った。
 名主の吉兵衛は七十五歳の寝たきり老人で、息子も病気で寝込んでいた。抵抗できるのは孫の弥吉(二十四歳)だけだった。
 彼一人で七人の襲撃者を防ぎきれるはずもない。もとより襲撃側も事前の下調べによってこの状況を把握しており、だからこそ計画を実行に移したのだ。
 弥吉が懸命に抵抗しているうちに女子供だけは逃がすことに成功したが、弥吉は傷を負わされたうえに縛り上げられた。
 そして襲撃者たちは弥吉たちに鉄砲のありかを吐かせようとしたところ、老人の吉兵衛が起き上がって抵抗したため丑五郎が吉兵衛を斬殺してしまった。
 この島抜け作戦が失敗すれば全員、死罪確実なのだ。それゆえ邪魔する相手は容赦しない。結局、鉄砲は家探しして見つけ出した。そのあと彼らは水夫の家も襲撃して熟練の水夫二名を拉致した。そしてその際にも抵抗者一名を殺害している。

 とにかく、このようにして安五郎の計画は予定通り成功し、一味はまんまと漁船に乗り込み島から脱出した。
 漁船の運航は水夫を鉄砲で脅して命令した。船は一路、伊豆半島の東岸へ向かった。風は幸い南からの風で、本土へ向かう安五郎たちにとっては文字通り「順風満帆」だった。
 けれども、問題はここから先なのである。
 なんとか本土へ無事上陸し、しかも本土の役人の目を逃れて雲隠れできなければ成功とは言えない。過去に島抜けを失敗した連中も、多くがこの先で失敗しているのだ。

 漁船は翌日の昼頃、網代(あじろ)(熱海と伊東の中間あたり)の近海まで来た。
 それで、とりあえず網代湾の裏手にある屏風(びょうぶ)岩の辺りに上陸することにした。この辺りは網代港の裏手になるため人目につきにくい。島を脱出する時、どさくさ紛れに米も奪ってきていた。とにかくここで飯を炊いて腹ごしらえをし、夜を待つ。そして夜になってから路上へ出て逃走する。そういった段取りを安五郎は考えていた。

 漁船がもう少しで浜辺に着こうかというその時、ちょうど網代港から小田原藩大久保家の家紋が入った御用船が出港してきた。
 といって別に、安五郎たちが慌てる必要はない。相手はこちらの素性など知らないのだし、そのまま黙ってやり過ごせば良いだけのことだ。
 ところが、皆が小田原藩の御用船に気を取られている一瞬のスキをついて、二人の水夫が海に飛び込んだ。この二人は泳ぎの達人でもあった。二人は必死に泳いで小田原藩の御用船を追いかけた。

 安五郎にとって、これは致命的な失敗だった。
 泳いでこの二人に追いつくのは不可能である。かといって、この状態で鉄砲など撃てば、小田原藩の御用船に銃声を聞かれて自分たちがひどく怪しまれることになる。
「く、くそったれ!こ、こうなったら仕方がない。皆、さっさと上陸して、す、すぐにどこかへ逃げのびろ!」
 と、安五郎は(ども)りながら皆に命令した。「吃安(どもやす)」こと安五郎は、普段はあまり吃らないが感情が(たか)ぶった時だけ大いに吃るのだ。
 安五郎の命令通り、皆が海に飛び込んで浜辺を目指した。もうほとんど浅瀬のところまで来ていたので全員すぐに上陸できた。
 このあと安五郎は別れのあいさつもそこそこに皆と別れ、すぐさま山道へ分け入った。そして西にある韮山を目指した。網代から西へ一山越えれば韮山がある。
 韮山といえば安五郎にとって一番危険な相手、江川英龍の地元なのだから「そんな危険なところへなぜ行くのか?」と読者は疑問に思うかも知れない。が、韮山のすぐ北には安五郎の兄弟分、大場の久八の地元間宮がある。そこへ無事たどり着ければ、久八のツテを頼ってどこかに潜伏することも可能だろう、と安五郎は考えたのだ。

 安五郎の賭けは当たった。
 この時、江川の韮山代官所も、先ほど見かけた小田原藩の御用船も「ペリーの黒船対応」に手一杯で、安五郎たちの島抜けに対処する余裕などなかったのである。

 小田原藩の御用船にたどり着いた水夫二名は、小田原藩に安五郎たちの島抜けについて通報したが、小田原藩の役人は黒船対応を重視し、水夫たちの訴えを後回しにした。この頃は黒船対応のために諸藩の船が伊豆南端の要地下田に詰めており、この船もそのまま下田へ向かったのだ。

 そして江川英龍も、このとき既に下田に入っていた。そのため韮山は手薄になっていたのだ。
 安五郎がうっかり新島から最短距離にある下田へ向かっていたら、それこそ逆に一網打尽にされてしまったであろうが、下田の目の前を突っ切って網代まで潜入したことが功を奏したかたちとなった。

 そして下田にいた江川は、水夫たちから安五郎島抜けの報告を受けた。
 けれども、この事件の直接の責任者である江川でさえも、安五郎たちの捜査は後回しにして黒船対応を優先した。
 いや、そうせざるを得ない立場に江川はいたのだった。

 ペリーの黒船が来航したことによって、当然ながら幕府はおおいに狼狽(うろた)えた。
 当時の政権担当者、すなわち主席老中が阿部正弘という歴代の政権担当者の中では比較的聡明な人物であったのは幸いだったが、実際に行政の現場で指揮を()る役人は、川路聖謨(としあきら)など一部の俊秀をのぞけば無能ぞろいであった。
 まして「海防」についての現実的な施策が取れる人間など皆無であった。
 以前から幕閣に何度も海防策を進言していた江川英龍に、黒船対応を任せるしかなかったのだ。
 そこで幕閣は、来年のペリー再来までに江戸湾の海防強化を江川に命じ、そのために江川を一地方代官から「勘定(かんじょう)吟味(ぎんみ)役」という幕府の要職に引き上げた。
 黒船対応という天下の一大事業が、江川の双肩にかかってきたのである。
 安五郎のことなど後回しにせざるを得なかったのも、無理からぬことであった。

 このあと江川は、新式大砲を鋳造するための反射炉建設に着手し、さらに江戸湾に砲台を設置するための台場建設にも着手するのである。
 そしてこの台場建設が意外にも安五郎、ひいてはその兄弟分である大場の久八にも幸いすることになろうとは、これまた江川にとって皮肉な話であった。

 江戸湾の台場と言えば、現代でもお馴染みの「お台場」のことである。東京湾の埋め立てが進む以前、あの辺りには数基の台場が作られていた。外国船の攻撃から江戸を守るために、沖に台場を作って大砲を設置しようとしたのだ。
 が、この工事の担当者となった江川は、本来この台場建設に乗り気ではなかった。
「こんな江戸湾の奥部に数基の砲台を築いても海防上、何の役にも立たない」
 と分かっていたからだ。実際のちに完成する台場は、江川が進言した十一基のうち五基が完成しただけの、さらに不十分なものに終わる。
 江川自身は、
「台場だけ築いても無駄である。海軍を創設しない限り外国船を防ぐことはできない」
 と進言していた。
 外国船はどこからでも攻めてこれるのだ。固定された箇所に台場だけ築いても無意味なことは誰でもすぐにわかることだ。
 だが、もし台場を築くのであれば品川沖に築くのではなく、浦賀水道に築くべきだ、と江川は進言していた。浦賀水道とは江戸湾の入口部分、つまり浦賀(横須賀)から房総の富津(ふっつ)を結ぶ水域のことである。江川はここに台場を築き、江戸湾への侵入そのものを防ぐべきだと考えたのだ。
 けれども、この江川の案は幕閣に却下された。
 海軍創設案や浦賀水道案は確かにもっともな話ではあるが、ペリーは一年後に再来するのだ。それまでに間に合わせなければ意味がない。
 さらに言えば、
「とにかく幕府が、黒船来航に合わせて何か最低限、海防についての努力をしたのだ」
 という証を国民に示すことが重要なのだ。そのためには、役に立とうが立つまいが、品川沖に台場を築くのが「人目につきやすく、物証として人々に示すことができる」。
 このように幕閣は判断し、江川に品川台場の建設を命じたのである。

 余談ながら、浦賀水道の台場は現在、品川台場ほど有名ではないが、富津岬の沖に第一、第二海堡(かいほ)が、また第二海堡と横須賀の中間地点に第三海堡が明治以降つくられ、ようやく江川案が実現されるに至った。ただしこれらの台場は関東大震災で大きな被害をうけ、さらに第三海堡は現在、海上交通の都合もあって完全に撤去されている。

 とにもかくにも、品川沖に台場が建設されることになった。
 しかも一年後のペリー再来に間に合わせるため、工事は急ピッチで進めなければならない。
 江川は工事責任者として図面の作成、石材の確保などに四苦八苦していた。それらの中でも一番の問題となったのは、五千人にのぼる建設労働者の確保であった。
 近年はあまりそういった風潮は見られないが、港湾労働者、建設労働者といえばその昔、ヤクザ者と密接に関わっていた世界だった。こういった「人足」を集めるのはヤクザ者、つまり博徒たちの得意分野なのである。

 この人足調達の仕事を引き受けたのが甲州郡内(ぐんない)の名主、天野(あまの)海蔵(かいぞう)と、さらにその兄弟分だった大場の久八だった。

 天野は、博徒ではないが久八や安五郎と親しく、その筋のこともよく知っている郡内の有力者である。また、郡内の有力者であるということは、かつて郡内の代官だった江川とも相知る関係にある。
 天野や久八の手配によって台場建設の人足はなんとか人数通り集まった。そして二人はこの仕事によって多額の報酬を得た。さらに久八にいたってはかつての罪、それは例の石原の幸次郎との抗争のことを指すのだが、それらも「お目こぼし」として許されたのである。
 ちなみに「大場の久八」の名前は、この「台場」の建設が由来となっている。
 台場建設で名をあげたために「台場の久八」と呼ばれたのだが、それが久八の地元間宮の隣り村の「大場」と混同され、久八は「大場の久八」「台場の久八」「間宮久八」などと呼ばれるようになったのだった。

 江川としては「黒船対応」という国家の一大事業を最優先し、断腸の思いで「小事」には目をつぶったのである。

 そしてその久八のところに逃げ込んだ安五郎も、これらの幸運によってまんまと島抜けの罪をまぬがれ、再び甲州へ帰る道が見えてきたのである。ただし、島抜けをした大罪人が(しかも島の名主まで殺している大罪人が)すぐに甲州へ帰るのはいくらなんでも不可能で、しばらくは各地に潜伏してほとぼりを冷ますことにしたのだった。

 安五郎が勝蔵の前に姿を現すのは、まだ数年先のことである。

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