第15話 黒駒一家、誕生(二)

文字数 3,767文字

 これ以降、勝蔵は数名の子分を引き連れて近隣の、つまり甲州南部にある祐天の賭場を次々と襲撃した。
 特に安五郎が島送りになってから祐天が奪った賭場に狙いを定め、襲撃の際には竹居一家の人間も若干名、一緒に連れていって手伝わせた。
 こういった勝蔵の手法は一種の「賭場荒らし」と見ることもできる。
 本来、賭場荒らしというのは他人の賭場へ入り込んで博打を打ち、「イカサマだ!」などとアヤをつけて相手をゆすったりするのが常套手段だが、勝蔵はそんなまどろっこしいことはしなかった。
 いきなり殴り込んだ。
 そして勝蔵は相手の博徒たちへ向かって叫んだ。
「ここは元々竹居一家の賭場だ。他人の賭場で勝手な事をやってるんじゃねえ。とにかく、いま手元にあるテラ銭は残らずこっちへ寄こせ。そしてさっさとここから出て行け。今度来た時にまだ残っていやがったら、タダじゃおかねえぞ」
 こう言い放つと、テラ銭が入った箱を無理やりかっさらって疾風(はやて)のように賭場から去っていった。
 ほとんど強盗同然の暴挙である。
 とはいえ、そもそも博徒自体が非合法な連中なのだから博徒同士の抗争に道理や遵法(じゅんぽう)精神を求めるのは無意味であろう。
 祐天一家の仲間内では、熊野神社で大暴れした勝蔵の勇名は末端まで知れ渡っていた。
 それゆえ、勝蔵の名前を聞いただけで震えあがって大人しく従った連中もいた。その一方で、血気にはやって勝蔵に歯向かってきた連中もいた。が、そういう連中は一人残らず勝蔵たちに叩きのめされた。
 こうして祐天の子分たちを賭場から叩き出した後は、竹居一家の人間が元の(さや)に収まった。ただし、すべての賭場を取り戻せたわけではなく、黒駒周辺の五つの賭場を取り戻しただけだった。とりあえず、そのうちの一つは黒駒一家の賭場として竹居側から譲ってもらった。

 こういった一連の殴り込みによって黒駒一家は「甲州一の武闘派博徒」としての名を高め、やがて近隣諸国にもその名が伝わることになった。

 むろん祐天の側とて、この状況を黙って見過ごすつもりはなかった。なにしろ祐天は幕府の目明しだ。幕府の威光をカサに、いくらでも勝蔵たちに反撃することはできる。
 ところがまさにこの頃、親分の三井卯吉が喜之助兄弟によって殺され、三井一家は組織全体が大きくぐらついていた。それで祐天としても、まずは三井一家の建て直しを優先し、これら一連の黒駒一家による襲撃を黙って見逃すしかなかったのだった。



 それからしばらくのち、勝蔵は綱五郎、兼吉、猪之吉の三名を連れて旅に出た。玉五郎と大岩小岩は甲州に残し、子分たちや賭場の面倒を見るよう命じた。
 行き先は、まず御坂(みさか)峠を越えて郡内(ぐんない)へ行き、それからさらに南下して伊豆へ行く。そのあと東海道へ出てひたすら伊勢神宮まで西進する。
 いや、別にお伊勢参りが目的ではない。安五郎の一派に加わった勝蔵としては、安五郎と繋がりのある親分たちにあいさつをしておきたかったのだ。
 主だった親分は伊豆の大場の久八、赤鬼の金平、遠州横須賀の都田(みやこだ)吉兵衛、三州(三河)平井の雲風亀吉、伊勢の丹波屋伝兵衛などである。そしてその前に郡内へ立ち寄るのは、富士吉田に、かつて安五郎や久八を博徒として育てた「仏の長兵衛」という長老格の人物がいるので、まずは長兵衛にあいさつをしておきたかったのだ。

 立春の頃、勝蔵は三人を連れて御坂峠へ向かった。梅が咲きはじめ、そろそろ桃も咲こうかという季節だ。
 峠へ向かう勝蔵の胸中は、自分でもおかしく感じるほど高揚していた。なんせ大好きな富士山を見られるのだから、ここを通る時はいつだって気持ちが高揚する。
 だが、どうも今回の高揚感はそれだけでもなさそうだった。
 これが博徒の世界へ本格的に足を踏み入れる第一歩になるだろう、という気負いと、純粋に他国へ出かける行楽気分が、自分の心をそうさせているのだろう、と思った。
(こりゃあどうも、我ながらいい気になっていやがる)
 と自戒だか自嘲だかよく分からない言葉が頭に浮かんだ。それで、
(物見遊山に出かける訳じゃねえんだ。親分の俺がこんなふうに浮かれてたんじゃ子分たちに示しがつかねえ)
 そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせた。
 この時の勝蔵に予測できるはずもなかったが、これから勝蔵は旅から旅へと「股旅人生」を送ることになる。
 今回がその第一歩になるのである。以後、彼は何度も東海道を股にかけることになる。

 博徒、すなわち“渡世人”の股旅姿といえば三度笠に縞柄(しまがら)の道中合羽(がっぱ)、手足には手甲(てこう)脚絆(きゃはん)、そして腰には長脇差を一本ぶち込んだスタイル、といったところがお約束だが、そんな連中が何人も群れをなして歩けばさすがに目立って仕方がない。
 ということで、勝蔵たちは行商人を装った一般人の姿で旅に出た。ただし四人とも腰には長脇差を一本差しており、しかも勝蔵を中心に「どう見てもカタギに見えない面構え」の男たちなのだから、道中、行き交う人々は皆この連中と目を合わせるのを避けた。

 ちなみに長脇差とは、身もフタも無い言い方をすれば「長い脇差」のことである。
 武士のみが差せる「太刀」は大体長さが二尺五寸(70-80㎝)ある。一方、長脇差は大体二尺弱(55-60㎝)だが、それでも攻撃力は太刀とくらべてそれほど遜色(そんしょく)はない。別名、長ドスとも言う。しかしあくまで「長い脇差」であって太刀ではないのだ、と強引に言い逃れている。
 太刀と脇差の二本差しが許されるのは武士のみである。というより、それが武士の象徴であり武士の概念そのものでもある。
 庶民は脇差一本なら指すことができる。それで庶民も、旅に出る時は用心のために普通の短い脇差を持って出かけることはある。ただし、それはあくまで用心のためであって、長脇差などという「特殊な用途」を前提とした脇差を差していれば、それだけでまず、いくら行商人を装っていてもカタギには見えない。
 しかもこの場合、四人全員だ。それはまあ、行き交う人々が彼らから目を背けるのも無理はなかったろう。


 余談ながら、このころ御坂峠にやって来た人物として、勝蔵以外にも、歴史的に有名な人物が二人いる。
 一人はのちに幕府の外務官僚として活躍する田辺太一で、もう一人は樋口一葉の父・大吉(のちの義則)である。
 田辺はこの前年(安政三年、1856年)の八月、それは勝蔵が小池家を飛び出した直後ぐらいのことだが、富士山見物のためにちょうどこの鎌倉街道を通って御坂峠へ来ていた。
 江戸の名門校、昌平黌(しょうへいこう)で優秀な成績を収めた田辺は、このころ二十六歳の若さで甲府の名門校、徽典館(きてんかん)の学頭として甲府に赴任していた。それで甲州の名勝である御坂峠へ一度行っておきたいと思ってこの時やって来たのだが、田辺はその旅日記を「遊三坂(御坂)記」という文章で残している。そしてその中で、黒駒で休憩をとって弁当を食べたことなども書き記している。
 ちなみに、のちに田辺と一緒に二度も幕府派遣のフランス使節に加わる杉浦愛蔵(譲)は、甲府生まれの幕臣として徽典館で田辺と知り合い、以後ずっと田辺を兄のように慕いつづけることになる。それでこの旅日記の中では杉浦の名前もちょくちょく出てくる。大河ドラマ『青天を衝け』を見ていた人はご存知だろうが、田辺も杉浦もパリ万博における渋沢栄一の同僚である。

 一方、樋口一葉の父・大吉が御坂峠へ来たのは田辺より少し後で、この年の四月のことだ。ただし大吉の場合は、田辺のような物見遊山で来たわけではない。恋仲だった女性あやめ(のちの妻、多喜)を妊娠させてしまい、二人で江戸へ駆け落ちするために御坂峠へ来たのだった。
 ただ、一つ疑問なのは、大吉は山梨郡中萩原の農民で(現在の甲州市塩山中萩原。その大吉の故郷には現在『樋口一葉文学碑』がある)、ここから江戸へ行くのであれば、それこそのちに文学作品で有名となる「大菩薩峠」を越えて青梅へ出るか、あるいはそれよりも多少道が整備されている甲州街道を通ったほうが早く行けるはずなのに、なにゆえわざわざ南へ大回りする御坂峠を通って江戸へ向かったのか、謎である。
「恋人を妊娠させての駆け落ち」
 と言うといかにも悲壮感がただよいがちだが、二人は藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)、鎌倉、羽田弁天などに立ち寄りながら、それこそはたから見れば物見遊山と見まがうほど気楽なノリで江戸へ向かったのだった。
 そのあと大吉は江戸で幕臣の下働きとして長く勤め、十年後、すなわち慶応三年(1867年)に幕臣の株を買って幕臣となる。が、周知のように幕府はその直後に崩壊するので彼が幕臣でいられたのはごく短期間に過ぎない。この二人のあいだに、のちの一葉こと夏子が生まれるのは明治五年のことである。

 さらに余談を加えると、のちに一葉が女性小説家を目指すことになるのは、その少し前(明治二十一年)に田辺花圃(かほ)という女性が『藪の鶯』という小説を書いて女性初の小説家として成功を収め、中島歌子の私塾「(はぎ)()」で花圃の後輩だった一葉も、それに刺激を受けて小説を書くことになるのである。
 この田辺花圃は本名、田辺竜子(たつこ)といい、田辺太一の長女である。
 竜子はのちに有名な評論家、三宅雪嶺(せつれい)と結婚することになる。
 が、そういった関連話を広げていくとキリがないので、このあたりで止めておく。
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