第48話 抑えきれない心(三)

文字数 5,254文字

 そして最後の甲州攻めについて、である。
 猪之吉は竹居や鰍沢など甲州の各地を回って知り合いに声をかけて歩いた。そして、この十二月十五日までになんとか三十人の人員を確保した。
 集まった人々の動機はこれまで見てきたのと似たり寄ったりで、食うに食われず一か八かで話に乗って来た者、尊王攘夷の志に共感した者、また武藤家の名声や勝蔵への信望から力を貸しても良い、といって集まった者など、人それぞれだった。
 これで江戸から来る浪士十人、武藤家の浪士十人と併せて一応は五十人の部隊ができることになった。
 甲府城を攻めるにはこれでもまったくの寡兵(かへい)に過ぎないが、その前哨基地である石和代官所や市川代官所を攻め落とすぐらいはできるだろう。もし自分たちが全員討ち死にしたとしても最低限の戦果はあげられるに違いない、と猪之吉はひとまず安堵した。そして藤太と共に江戸から浪士たちが到着するのを待った。

 その上田修理たち浪士十人はこの十五日、甲州街道を八王子までやって来てそこで宿をとることにした。
 翌日には小仏峠を越えて甲州“郡内”の山中へ入り、そのあと甲州“国中”へ突入して甲府城を相手に討ち死にすることになろう。
 その前に「八王子十五宿」として有名な横山宿の妓楼(ぎろう)で、この世の名残りに豪遊しておこうではないか。
 と隊長の上田は皆に提案した。
 提案された浪士たちは少し戸惑った。
「これから甲州で決死の戦さをするというのに、そのような浮ついた気持ちで戦さに勝てますか?!」
 そう心の中で思う者もいないわけではなかったが、決死の戦さを目前にして女の肌が恋しくなるのは男の悲しい性。誰も隊長に反論せず、
「それはどうも、あまり良い感じはしませんが、隊長がそこまで言うんじゃ仕方がありませんなあ」
 と、しぶしぶ従うように言いつつも、隠しようのない緩んだ表情で、それぞれ妓楼にあがった。もちろんそこで「泊まる」のである。
 隊長の上田、それに富田、堀、植松、原、あと従僕の重助などこれら六人が千代住という妓楼に泊まり、神田、加藤、安田、笹田の四人は壺伊勢という妓楼にそれぞれ泊まることになった。
 この壺伊勢に泊まる神田という男は、甲府勤番役人の浅井才兵衛の次男で本名を浅井才二といい、今は神田(みなと)と名乗って江戸で旗本の家臣となっている。
 甲府勤番関係者としては他に植松、加藤、笹田もそうで「だったら甲州について相当くわしいはずだろう」と見込まれて今回の作戦に加えられた。幕府の役人である甲府勤番の関係者にも尊王攘夷の道へ走る者は少なからずいたのだ。そして相楽に命じられて藤太のところへ甲府城攻略の話を伝えに行ったのも、この神田であった。

 夜中の九つ(午前零時)頃、千代住に泊まっていた六人の一人、原宗十郎という男がこっそりと建物から抜け出し、甲州街道を西へ走って千人町にある八王子千人同心の番所へ駆け込んだ。
 八王子千人同心とは、甲州武田家の遺臣、あるいは八王子城が陥落して北条家が滅亡した時にその遺臣が徳川家に召し抱えられたともいうが、そういった家康の江戸入府のころから八王子を守ってきた幕臣たちのことである。このころには江川太郎左衛門に軍事訓練を受けるなど強力な軍事組織として定評があり、この前年「武州世直し一揆」という大規模な一揆が発生した際にも江川の農兵部隊と共に一揆の鎮圧に活躍した。
 そこへ駆け込んだ原宗十郎は、実をいうと会津藩士だった。会津藩が三田の薩摩藩邸へ送り込んだ間諜だったのである。
 そして原は、浪士たちが甲府城を攻めようとしているのでただちに捕縛するように、と千人同心へ通報したのだ。

 その半刻(一時間)後、千人同心の部隊が千代住と壺伊勢の浪士たちを急襲した。
 千代住へ向かった部隊は原が先導した。原は手にピストルを握って千人同心と共に建物内へと突入した。
 上田たちは千代住の二階で(おんな)同衾(どうきん)してぐっすり眠っていたが、異変に気がつくと飛び起きて刀を取った。そこへすかさず千人同心の部隊が斬り込みをかけて乱闘となり、妓たちは叫び声をあげて外へ逃げていった。
 岐阜浪人の富田弥十郎は剣術の達人で、千人同心を何人も斬って激しく抵抗したが、間諜の原がピストルを数発撃ち込んで富田を射殺した。堀、植松はなんとか建物からの脱出に成功して浅川の河原まで逃げた。しかしそこで千人同心に包囲されて二人とも斬り死にした。従僕の重助は真っ先に斬り殺されていた。
 ただ一人、隊長の上田修理のみが周囲を突破して江戸へ逃げ帰ることに成功した。

 一方、壺伊勢へ向かった千人同心の部隊は、原のような先導者がいなかったせいか神田たちを四人とも取り逃がした。
 神田たちは捕り方がやって来るのに気づくとすぐに起き上がって刀を取り、敵に斬りつけた。と思ったら暗闇の中だったので同士討ちとなり、これで神田は頭と胸に傷を負ってしまった。そういったドタバタとした混乱はあったものの四人はなんとか建物から脱出することができた。
 神田は血を流しながら浅川まで歩いて行き、凍え死に覚悟で真冬の川に飛び込んで、どうにかこうにか対岸まで泳ぎ着いた。それからしばらく江戸へ向かって歩いているとやがて夜明けとなって前方の東の空が明るくなってきた。逃亡中の身としては人目につくわけにもいかず、粗末な神社の祠に隠れて夜を待つことにした。
 衣服がカチカチに凍ってしまう程の真冬の寒さである。その寒さを何とか耐えしのぎ、夜になってから祠を出て東へ向かった。腹が減って死にそうなので畑から大根や(かぶ)を抜き取ってそれをかじりながら歩きつづけた。そうやって歩きに歩いて、ようやく内藤新宿までたどり着き、そこから辻駕籠を雇って三田の薩摩藩邸まで逃げ帰った。
 壺伊勢に泊まった他の三人もそれぞれ似たりよったりの散々な目に遭いつつも、命からがら三田まで戻って来た。
 こうして甲州攻撃部隊は跡形もなく消え去ったのである。


 そのころ甲州の黒駒では。
 猪之吉は藤太と甲府城攻めの相談をするために何度となく武藤家へ足を運んでいた。けれども、そこでお八重と会うことは一度もなかった。
 やはり状況的に考えて、もう嫁に行ってしまったのだろう。
 そう考えるのが自然だ。とは思いながらも、甲府城攻めの戦さが始まれば、おそらく自分は死ぬことになる。
 せめて死ぬ前にお八重がどうなったのかハッキリと知っておかねば、無念の思いを引きずってしまう。
 それでやはり、思いきって武藤家の人に聞くことにした。
 さすがに藤太には聞きづらい。それで、かつて何度か話をしたことがある武藤家の使用人で孫蔵という年配の男にお八重のことを聞いてみた。
 すると衝撃的な答えが返ってきた。
 お八重はここにいる、というのだ。
 ずっと(やまい)で寝込んでいる、と孫蔵は言った。
 病状は気の病だという。勝蔵や猪之吉が甲州から去ったあと心がふさぎがちになり、それ以前からお八重はしばしば神社の祠にこもってお祈りを捧げていたが、それ以降も祠にこもってばかりで気欝(きうつ)になったのだろう、と孫蔵は言う。
 それを聞いて猪之吉は、かつて藤太から聞いた話を思い出した。それは、彼女が祠で勝蔵親分の無事や尊王攘夷の成就を祈っているという話だった。きっと親分がいなくなったあとも彼女は何かしら神様に祈っていたのだろう、と猪之吉は思った。
 それで、以前は外記や藤太が何度か見合い結婚を勧めたこともあったのだが彼女はそれを拒絶したらしい。そしてそのあとも祠にこもる日々を送っていたところ、ある日を境に体調を壊し、最近ではいっそう気欝な状態となってほとんど寝込んでいる、という話だった。

 猪之吉は「お八重殿にぜひ会わせて欲しいので取り次いでもらえないか?」と孫蔵に頼んだ。すると孫蔵はそのことを伝えにお八重の寝所へ行った。
 しばらく猪之吉が玄関で待っていると、やがて孫蔵が戻って来た。
 お八重からの返事は「今は会いたくない」ということだった。病んでやせ細った醜い姿を見られたくない、と。
 猪之吉は意を決して孫蔵に大事なお願いをした。


 しばらくのちの武藤家内の一角。
 猪之吉は孫蔵の手引きでお八重の寝所の外側までやって来て、ふすま越しにお八重へ呼びかけた。
「あの、もし、お八重殿。いきなり押しかけて来てまことに申し訳ありません。猪之吉です。私は明日にでも戦さへ出て討ち死にするつもりです。最後に一目、お目にかかれませんでしょうか?」
 しばらく無言の間があり、やがて、
「どうぞ、猪之吉さん」
 と返事があった。それで猪之吉はふすまを開けて中へ入った。
 入ると、お八重は布団の中で横になっていた。枕に乗ったお八重の頭は反対方向を向いており、表情は見えない。
 猪之吉はすぐに腰を落として座り、無言でじっと待った。
 すると、しばらくしてからお八重は無言で顔をこちらへ向けた。
 確かに猪之吉も驚くほど頬もやせこけて、やつれた表情になっていた。
(かわいそうに……)
 そう思った途端、なぜか涙が流れた。
「なぜ泣くの、猪之吉さん……?」
「分かりません。多分、久しぶりに会えたから、嬉し涙でしょう」
「こんな寝たままでお目にかかるなんて恥ずかしいし、第一、失礼で申し訳ないわ。でも、猪之吉さん、戦さに出るって本当?ひょっとするとお兄様が何かなさっていることと関わりがあるのかしら……?」
「ご心配には及びません。お八重殿は早く病を治すことだけを考えてください。今は日本中で戦さが起こりそうな世の中なのです。天朝様の世を作り上げるため、皆が捨て石となる覚悟です。私もその一人に過ぎません」
 猪之吉の気持ちに偽りはない。もしこの甲府城攻めの戦さで死ななかったとしても、関西で勝蔵と共にもっと大きな戦さに加わることになるだろう。いずれにせよ、まず、命は無いものと見てかからねばならない。

 やはり死ぬ前に、ひとこと言っておきたい。
 その気持ちを抑えきれなかった。
「あの……、お八重殿……」
「はい」
「私は以前から、お八重殿のことをお慕い申しておりました」
「……」
「もし、生きて帰ってきたら私と夫婦(めおと)になってもらえませんか?」
 お八重はしばらく黙ったままだったが、やがて口を開いた。
「……急にそんなことを言われても……」
「自分勝手なことを言ってしまって申し訳ない。だけど、死ぬ前にどうしても私の気持ちを伝えておきたかったのです」
「猪之吉さん。私が以前、勝蔵さんを慕っていたことはご存じでしょう?」
「ええ。それは、誰よりも私が一番知っています」
「だから猪之吉さんは勝蔵さんの弟みたいで、歳は私より上だけど、私も猪之吉さんを弟みたいに思っていたの」
「私もずっとあなたは、いつか勝兄貴の女房になる人だと思ってました。義理の姉で、しかも黒駒一家の姉御になるお人だと」
「だから、そんな猪之吉さんから急に夫婦に、と言われても何と答えて良いか……」
「いや。それが当たり前でしょう。私が自分勝手なことを申したまでのこと。なにしろ私はヤクザ者で、しかも下っぱだ。武藤家の姫様であるあなたとでは身分が違い過ぎる」
 それから猪之吉はおもむろに脇差を抜き、左手で自分の髷をつかんで切り落とした。
 そしてその髷をお八重の枕元に置いた。
「これを私の形見として置いていきます。最後に一目あなたと会って、想いを伝えることができて良かった。これで悔いなく死ぬことができます」
 そう言ってにっこりと笑みを浮かべ、席を立とうとした。

 お八重は枕元にある猪之吉の髷を手に取った。
 その瞬間、どうしようもないほど切ない感情が胸にこみ上げ、お八重の目から涙がこぼれ出た。
 そして不意にガバッと上半身を起こし、立ち去ろうとする猪之吉へ取りすがるように手を伸ばして、叫んだ。
「待って、猪之吉さん!」
 猪之吉は無言で振り返る。
「絶対に死なないで。……私もあなたと夫婦になりたい」
「……」
「だから、絶対に死なないで、私を迎えに来てください。私、毎日、神様にお祈りしています」
 猪之吉はしゃがみ込んでお八重の手を取った。
 そして二人はじっと見つめ合った。もう何も言うことはない。
 それから猪之吉はお八重の寝所から立ち去った。



 そのあと猪之吉と藤太は江戸から来るはずの十人の浪士を何日か待ったが、むろん彼らは来なかった。
 猪之吉は勝蔵から「なるべく年内には京都へ戻るように」と命じられているので、いつまでも甲州に留まるわけにはいかない。
 京都では王政復古が宣言された、という噂も聞こえてくるようになった。一体京都では何が起きているのか?それも確認する必要がある。
 それで猪之吉は、やむなく甲府城攻めの作戦に参加することは断念して、集めた三十人の浪士のことは藤太に委ねた。そして十二月二十五日に黒駒を発って中山道経由で京都へ向かった。

 言うまでもないことかと思われるが、甲州攻めの作戦はそのまま中止となった。
 それどころか、猪之吉が黒駒を発ったその日に、三田の薩摩藩邸は幕府によって壊滅させられた。
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