第57話 赤報隊と高松隊(五)

文字数 6,618文字

 そのあと勝蔵は重苦しい表情で加納宿の赤報隊本営へ戻った。
 このころ既に、綾小路や相楽など赤報隊の本隊も加納宿へ入ってきていた。
 勝蔵が本営へ入ると、昨日ここへやって来た小沢一仙が、相楽に出発のあいさつをしに来ていたところだった。
 一仙は顔なじみの勝蔵を見かけると声をかけてきた。
「おお、勝蔵さん……じゃなかった、勝馬さん。どうしたんだい?そんな暗い顔をして」
「……いや、大したことはありません。それより小沢さんは、もう甲州へ向かって出発するんですか?」
「ああ。早く高松卿と甲州へ入って、幕府から甲府城を奪い取りたいからな。向こうで武藤の旦那に会ったら、勝馬さんのこともよろしく伝えておくよ。いずれあとから勝馬さんもやって来るって」

 なぜ一仙がここにいるのか?
 それを知るためには五日ほど時間をさかのぼる必要がある。

 友人の岡谷(おかのや)と協力して公家の高松保実(やすざね)に『甲斐国尽忠次第建白』という建白書を提出し、それが朝廷に採用されたのは一月初めのことだった。
 そのあと保実の三男実村(さねむら)を総帥に迎えて隊を立ち上げ、それから甲州へ向かおうとしていたのだが計画はなかなか前へ進まなかった。
 実村は、綾小路、滋野井、鷲尾といった先に挙兵していた公家たちほど“過激派公家”というわけでもなかったが、二十七歳という若さもあってか、この一仙による甲州遠征計画に乗り気となった。
 そして朝廷内で、この当時岩倉具視と並んで有力者となっていた三条実美(さねとみ)に実村が相談したところ、三条は、自分はその考えに同意するが一応岩倉公とも相談するからしばらく待て、と実村に答えた。
 実村はそそっかしい男で、これだけで話が通ったと思い込み、一仙と岡谷に「許可が下りた」と伝えて出発の準備に取りかからせた。
 ところが出発間際になって三条から呼び出されて実村が行ってみると、岩倉公と相談してみたが「やめたほうがいい」と言われたので今は見合わせたほうがいいだろう、と言われた。
 それでは話が違う、といって実村が三条に食い下がったところ、そこまでの意気込みであれば岩倉公に直接会って話してみるがいい、と言われたので実村は一仙と同道して岩倉に会いに行った。

 岩倉に会うと二人は「早く甲州を押さえないと幕府軍の反撃にあってしまいます」といった意見をくり返し岩倉に浴びせた。
 が、この二人と岩倉とでは情報量も見識も雲泥の差がある。
 実村のような軽輩をそんなにあわてて先行させなくても、正規の東征軍が堂々と錦の御旗をかかげて進軍していけば、いずれ甲州は陥落する、と岩倉は見ている。
 鳥羽伏見の最中に東を守らせるために赤報隊を立ち上げたころとは、状況がまったく変わっているのだ。
 そんな小部隊を正規の官軍として先行させて、もし幕府軍に敗れでもしたら錦旗(きんき)の尊厳が(けが)されることになる。それに東海道軍と東山道軍との進軍速度の兼ね合いもある。
 といったようなことをいちいち軽輩の実村や、どこの馬の骨とも分からない一仙に説明する気もなかった。それで岩倉は二人の意見を適当にあしらいつつ「とにかく出発は見合わせよ」と厳命した。そして「本日も多忙なので、これにて失礼する」と言って席を立とうとした。

 すると一仙は、たちまち顔を真っ赤にして岩倉にくってかかった。
「それは(はなは)だ合点がまいりませぬ!拙者も天朝様のために一命を投げうって一隊を旗あげする覚悟でございますのに、公のお言葉は拙者の赤心をないがしろになさっておりまする!」
 後年の実村の回想では、小沢はこのとき躍り上がって岩倉公に飛びつくような勢いを見せ、そのはずみでそばにあった屏風を転倒させてしまった。それで自分も驚いて呆然としていた、と述べている。

 無難車船で失敗し、琵琶湖運河計画も頓挫し、今回の甲州遠征計画も、出発が決まったと思っていたのに岩倉から思わぬ横槍を入れられて中止になりつつある。
 これまでの鬱積(うっせき)がここで一気に爆発してしまったのだ。
 正式な武士でもないのに岩倉に向かってこれほど無礼な態度をとった男は、おそらく小沢一仙だけであったろう。
 岩倉は不快に思いながらも、もちろん二人のことなど相手にせず、そのまま退席してしまった。
 そのあと三条をはじめいろんな公家たちが実村に対して「脱走は思いとどまれ」と説得しにきた。しかし一月十八日、実村はそれを聞かずに一仙や岡谷たちと一緒に京都を脱出して中山道を東へ向かったのだった。
 実村と一仙は以前から朝廷に対して「錦の御旗を下賜(かし)していただきたい」と願い出ていたが当然ながら却下されており、総帥である実村の公家としての権威のみを頼りとした一隊である。総勢十四人。
 この「高松隊」の結成にあたって、隊の後見役についた一仙は小沢雅楽之助(うたのすけ)と、隊の家老職についた岡谷は斯波(しば)弾正(だんじょう)と名乗るようになった。が、ここではこれまで通り「一仙」と「岡谷」で通すことにする。
 二十日、彦根に着くと彦根藩は「赤報隊に引きつづき、またお公家様の一行が来たか。はた迷惑な話だ」と内心では思ったであろうが、そんなことはおくびにも出さず、今回も高松隊に対し小銃・弾薬・軍資金、それに兵士と人足を数人ばかり提供して恭順の姿勢を示した。
 その後も高松隊は中山道をどんどん東へ進んだ。先に通っていた赤報隊によってあらかじめ平定されていたので難なく先へ進むことができた。のみならず彦根藩同様、諸藩から人員の提供が相次ぎ、すぐに百人近い隊にふくれあがった。
 そしてこの前日、高松隊は赤報隊に追いついて加納宿までやって来たのだった。
 しかも高松隊はこの日、赤報隊を追い抜くかたちで先に出発し、太田宿のところにある中山道の難所「太田の渡し」も越えて一気に伏見宿まで行く予定であった。

 勝蔵と一仙の会話の場面に戻る。
「どうだい、勝馬さん。あなたもこちらの隊へ加わって高松卿のために働いてみないか?そうすれば我々と一緒に甲州へ帰ることができるぞ」
「うーん、それも悪くはないけど、勝手に綾小路卿の赤報隊から離れるわけにもいきませんし、甲州への一番乗りは小沢さんに譲りますよ」
「なんだ。勝馬さんらしくもない。ずいぶんと大人しいじゃないか」
 この直前に水野一家の騒動を目にしていただけに、勝蔵は少し気分が沈んでいる。
「まあ、いずれ我々赤報隊も甲州へ行きますから、ひょっとすると後からそっちを追い抜くかも知れませんよ」
「ハハハ。それはないよ。こちらは一気に甲州まで進むからな。聞けば赤報隊は、東海道へ戻るかどうか決めかねているって話じゃないか」
「確かにそちらを追い抜くのは難しいかも知れません。だけど中山道でも東海道でも、東へ行くのは同じです。いずれ甲州へも回ることになるでしょう。それはそうと、そっちこそ本当に大丈夫なんですか。朝廷から正式にお許しをもらったわけじゃないんでしょう?」
「なあに、大丈夫さ。こちらには高松卿がいらっしゃるんだ。甲府城を落とす、という成果をあげれば必ず後から朝廷も認めてくださる。『兵は拙速(せっそく)(たっと)ぶ』と言うじゃないか。グズグズしているうちに甲府城を幕府に固められては元も子もなくなってしまう」
「あまり張り切りすぎて空回りしないでくださいよ。ただ、昨日見せてもらった、あの『甲州治安十ヶ条』が本当に達成できれば、まさに大手柄ですよ」

 この『甲州治安十ヶ条』とは、一仙が甲州平定のために用意してきた文書で、その平定方針が十ヶ条で書かれている。それを一つ一つ箇条書きすることはしないが、概要のみを記すと、年貢半減、武田浪人や神主など勤王の志士を士分として優遇する、名主たちが幕府から課されていた諸役を免除して屋敷を与える、甲府勤番(幕府)の役人は本来全員クビにすべきところだが旧来の石高に応じてそれなりの待遇をする、といったもので、現代風にいうなら「バラマキ財政」とでもいうべき虫のいい内容なのだが、その中でも特に注目すべきは、旧来から甲州で適用されて来たいわゆる「甲州三法」、というか「武田三法」とでも呼ぶべき甲州独特の優遇税制をそのまま温存する、という部分であった。
 この甲州三法というのは、これまで機会がなかったので触れなかったが実は甲州では「大小切(だいしょうぎり)税法」「甲州(きん)」「甲州(ます)」という他国とは違う制度が江戸時代を通じて認められていたのである。
 なかでも「大小切」は甲州農民にとって有利な税制で、これら三つの制度は「信玄公の頃から甲州農民に認められてきた祖法である」として、幕府からたびたび撤廃を求められてもそのつどゴネにゴネて、しまいには「信玄公から(たまわ)った文書」などという出どころのあやしい文書を持ち出してまで抵抗して、しぶとく守りつづけてきた。
 御一新になるからといって甲州三法は撤廃しない。そのうえ年貢も半減にする。年貢半減は相楽も新政府から許可を得ており、その対象は幕府領限定ではあるのだが、甲州はまさに幕府領である。半減されるのが当然であった。

「この十ヶ条が認められれば、きっと武藤の旦那にも喜んでもらえるだろう」
 と一仙は笑顔で言った。
「そりゃあもちろん、そうでしょう。武藤の若先生にもよろしくお伝えください」
「分かってるって。武藤家の方々とお会いするのが今から楽しみだ」
「王政復古によって我が甲州から幕府を追い出し、信玄公の時代のように武田家の勢力が復古する。これほど喜ばしいことはない。頼みますよ、小沢さん」
「ああ、まかせておけ。それじゃあ後日、甲州でまた会おう」
 と言って一仙は加納宿から出発していった。

 しかし勝蔵が一仙を見たのは、これが最後となった。



 一仙が勝蔵のところから去ったあと、相楽が勝蔵のところまでやってきて話しかけた。
「池田さんは小沢さんと知り合いだったのか?」
「ええ。甲州の武藤外記先生のところで知り合いました。あの人は元は伊豆人ですが、今では甲州に家族がいて、ほとんど甲州人です」
「なるほど。甲州の武藤先生といえば高名な勤王家だ。ところで、池田さんは京都で白川家に仕えていたと聞いたが」
「いかにも。白川神祇伯(じんぎはく)のところで一年ほど世話になっております」
「そうか。じゃあ白川家の千代丸様のことはご存じだろう?」
「もちろんお名前は存じておりますが、私が白川家に入るのと入れ替わるように江戸へ行かれたとのことで、(じか)にお会いしたことはありません」
「そうだったか。私は平田家の門人なのだ。江戸の平田家で千代丸様とお会いしたので、白川家の方にそのことをお伝えしようと思っていたのだが……」

 この白川家の千代丸とは勝蔵が仕えている白川資訓(すけのり)の弟のことである。年齢は十八歳。神祇伯をつとめる白川家はもちろん神道界の大家なのだが、この当時、神道界では平田国学が大きな影響力を持つようになっていた。
 平田国学とは、言うまでもなく平田篤胤(あつたね)が作り上げた国学の一大系統である。
 平田篤胤、相楽総三、赤報隊。
 こういった単語が並ぶと年配の方からすると「戦前の国粋主義の権化」「極右」とでもいった風に忌避されるかも知れない。後年、どのように政治利用されたかはともかくとして、実際にそれらの中身を詳しく見てみると、そういった見方はいくぶん先入観が強すぎるのではなかろうか、という気もする。
 その平田篤胤が亡くなったのはこれより二十五年前のことで、この当時は後継ぎ(養子)の鉄胤(かねたね)が江戸で気吹舎(いぶきのや)という塾を開いていた。この赤報隊には相楽を筆頭に国学を学んだ尊王攘夷の徒が大勢いる。その多くはこの鉄胤が主宰する気吹舎で学んだことがある「平田門人」だった。
 それで白川家の千代丸も、同じ神道家として江戸の気吹舎へ学びに行っていたのである。千代丸が京都から江戸へ向かったのはちょうど勝蔵が白川家に入る直前のころだった。
 そして相楽も勝蔵も知らなかったが、その千代丸はちょうどこのころ江戸から京都へ向かっており、のちに中山道で赤報隊と遭遇するのである。

「それで相楽さん。我々赤報隊も甲州へ行くんでしょう?」
「ああ、無論そのつもりだ。私は碓氷峠を押さえるのを優先すべきだと思うが、甲州も幕府打倒のためには大事なところだ。それに碓氷峠より甲州のほうが横浜に近いからな。まあ小沢さんが先に甲州を押さえてくれるのなら、それはそれで好都合だ」
「横浜?」
「横浜を焼き討ちするのは我々にとって年来の宿願だ。そもそも幕府がそれをやろうとしなかったから、我々は幕府を倒す決意をしたのだ。王政復古がなった今、先帝(孝明天皇)のご叡慮(えいりょ)であった横浜鎖港(さこう)をなんとしてでも成し遂げねばならん」
「それじゃあ東海道を進んだほうが良かったんじゃないですか?」
「いや、東海道は正規軍に任せる。どうも京都の連中は本当に攘夷を実行する気があるのかどうか、あやしいところがある。だから我々はこっそりと中山道から関東を目指したほうが良い。それに、信州には私と同じ平田門人が大勢いるのだ。攘夷を実行するためには彼らの手も借りたい」
 勝蔵はここで初めて相楽の本心を知った。
 なるほど。今、この人が目指しているのは攘夷実行、すなわち横浜焼き討ちなのだな、と。

 現代人の目から見れば違和感を感じるだろう。
 なぜ、そんな極端なことを考えるのだ?と。
 だが、この当時の尊王攘夷家からすれば、この相楽の発想はごく自然なものだ。
 幕府は開国派であり、その幕府を倒そうとする薩長(少なくとも長州)と朝廷は攘夷派である、というのが当時の人々にとっては自然な感覚だった。
 その薩長と朝廷が幕府を倒したのであれば、今こそ彼らは必ず攘夷を実行するのだろう、と人々は思っていた。そして熱心な尊王攘夷家にとっては、それが悲願でもあった。
 そういった風潮の中で、この十二日前には神戸で備前藩の軍勢が外国人に発砲するなどして小競り合いが起きていた。そしてこの翌月には堺で土佐藩の軍勢がフランス兵に発砲して十数人を死傷させるという事件が起きる。「神戸事件」と「堺事件」である。
 これらの事件が発生した原因には様々な要素があったのだが、中でも特に、
「幕府が倒れて開国が否定されたんだから、これでやっと攘夷が実現されるのだろう」
 と思い込んだ人たちによる暴発、という要素がかなり強かった。
 その神戸事件の情報はすでに相楽のもとに届いていた。しかしその内容は、
「京都の新政府は攘夷を実行する気はなく、十五日には勅使(ちょくし)が神戸に派遣されて“開国和親”の方針を諸外国へ伝えた」
 という、相楽にとって予想外のものだった。
(話が違うではないか)
 相楽は無論のこと、他の尊王攘夷家たちも皆そのように思った。

 しかし勝蔵は、そうは思わなかった。
 確かに勝蔵も尊王攘夷の思想を持ってはいるが「攘夷」ということについては、それほど強く意識したことはない。昔からそうだった。
 攘夷なんて間違っている、と思っているわけではない。ただ単に、外国や外国人に対する意識が薄いだけのことだ。甲州には海がないのだから。
 しかもなにしろ根は博徒の親分だ。そこまでインテリではないのである。

 勝蔵は相楽のことが嫌いではない。
 が、どこか危なっかしいところがある、と思っている。
 相楽は赤報隊の中でときどき隊士たちに演説をすることがあった。勝蔵は猪之吉と一緒にその演説を聞いたことがあり、その内容は平田国学についてのものだったのだが「御国の御民」という話に猪之吉は非常に感銘を受けていた。「御国の御民」とは平田国学における思想の一つで、平たく言えば「一君万民」という平等思想である。
 相楽は、民が疲弊しているのは開国による物価高騰が原因なのだから外国人は打ち払わねばならないと考え、また疲弊している民のためには年貢半減も必要だと考え、御一新が成れば皆が帝の臣民として平等な世の中になるであろう、と思っている。
 相楽はそういう男である。
 けれども勝蔵の目から見ると、
(その考え方は良いのだが、あまりにも急ぎすぎている)
 と感じられたのだ。

 その勝蔵の懸念通り、この日、相楽の一番隊は一仙たち高松隊のあとを追うように次の鵜沼(うぬま)宿へ向けて出発していった。
 死んだ藤堂平助は、いつも真っ先に敵へ向かって突進して行くので新選組のなかでは「(さきがけ)先生」として有名だったが、相楽はこの赤報隊の「魁先生」とばかりに中山道を突き進んで行った。

 一仙につづき相楽についても、勝蔵が目にしたのはこれが最後となった。
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