第11話 龍馬と勝蔵

文字数 8,533文字

 嘉永六年(1853年)六月の「黒船来航」の事件については、前回書いた。
 ペリーは久里浜に上陸して親書を渡すと「来年、条約交渉をするために再来日する」と告げ、さっさと船に戻った。ただし、その後ただでは帰らず、幕府を威嚇するため江戸湾の奥深くまで侵入し、それから帰っていった(といってもアメリカに帰国した訳ではなく、琉球経由でいったん中国の近海へ戻っただけのことだ)。

 そしてペリーが去った十日後、別にペリーの威嚇に驚いてショック死したわけでもなかろうが、将軍徳川家慶(いえよし)が病死した。享年六十一。

「江戸幕府は、なぜ明治維新によって瓦解したのか?」
 この事については、これまで様々な意見が語られてきた。
「幕府上層部が無能だらけだったから」
「井伊直弼が強権を発動させた割にあっさりと桜田門で殺されてしまったから」
「イギリスじゃなくてフランスについてしまったから」
 とか、いろんな見方があるだろう。
 けれども意外と指摘されてない見方として、筆者が以前から思っている事を述べると、
「将軍が病弱で、肝心な場面で続けざまに死んでしまったから」
 という理由が一番大きかったのではなかろうか?と思う。
 家慶はペリー来航の直後に急死し、次の家定は日米修好通商条約締結という更に重要な局面で急死した。そしてその次の家茂は、幕長戦争(第二次長州征伐)の最中に急死して幕府軍の敗北を決定づけた。
 黒船来航以後、幕府が危急存亡の状態にあるなかで、三人とも何の実績も残せず、むしろ肝心な場面で急死して幕府の寿命さえも縮めてしまったのだ。
 将軍、すなわち征夷大将軍は国の最高責任者である。
 本来、国民の先頭に立って強い指導力を発揮しなければならない立場なのである。
 それが三人とも(そろ)いも揃ってこのザマでは、他の細かな理由がどうであったにせよ、幕府の命脈はすでに尽きていたというべきだろう。



 この年の冬、勝蔵は再び江戸の千葉道場へ修行に出てきた。
 坂本龍馬は、まだ道場に残っていた。来年の半ば頃までは江戸にいるらしい。勝蔵が道場へ入ると、龍馬は他の塾生と一緒に稽古をしているところだった。
 けれども龍馬の握っている得物がおかしい。薙刀(なぎなた)の形稽古をしているのだ。
「龍馬」
「おお、勝蔵さんか。お達者そうで何よりじゃ」
「お主、そんな物を振り回して何をしているのだ?」
「いやなに、チクと薙刀の稽古をしちょる」
「お主は相変わらず、おかしなことばかりしておるなあ。薙刀など、女子(おなご)が習うものではないか」
「そうバカにしたもんでもないぜよ。薙刀もこうして扱えば、立派な護身用の武器となるがじゃ」
「まさか、お主……、ひょっとしてお佐那殿に近づくために薙刀を習っておるのではあるまいな?」
「な、何を言うがじゃ、勝蔵さん!そんな訳がなかろうが。アホなこと言わんときや。ワシは土佐で小栗流の槍術も習っとるがぜよ。この薙刀の稽古も、単にその一環に過ぎんぜよ」
「本当だろうな?お主はなんせ、手がつけられんほどの女好きだからなあ……。ところで、重太郎先生はご在宅かね?さっそくご挨拶にうかがいたいのだが」
「いや、本日は丸の内の鳥取藩邸へ行っておられるので、ご不在じゃ」

 この年の四月に千葉重太郎は「撃剣取立役」という役職で鳥取藩に召し抱えられた。父定吉もそれ以前から鳥取藩士となっており、親子そろって鳥取藩に仕えることになったわけだ。
 鳥取藩主は、水戸の徳川斉昭の五男で鳥取池田家へ養子に入った池田慶徳(よしのり)である。ゆえに鳥取藩も水戸藩同様、尊王攘夷の色合いが濃い。
 定吉の兄の千葉周作は、その斉昭の水戸藩に出仕している。弟の定吉が鳥取藩に出仕するようになったのも、おそらくそういった水戸藩と鳥取藩の関係と無縁ではあるまい。
 黒船が来航したことによって千葉兄弟の北辰一刀流は、尊王攘夷の流行と相まってますます繫盛することになる。

 この日、稽古の合間に勝蔵と龍馬は中庭の縁側で休憩しながら世間話をはじめた。
「この前、お佐那さんから聞いたんじゃが、勝蔵さんは武士になることを目指しているそうじゃな」
 これを聞いて勝蔵は、
(なぜ、こやつがお佐那さんから、そんな話を聞いておるのだ?)
 と(いぶか)しく思いながらも、一応龍馬に自分の意図を述べた。
「そりゃまあ、こういうご時世だし、誰だって武士になって世のために尽くしたいと思うのは当然だろう。重太郎先生が鳥取藩士になられたのも、やはりそういうことだろう」
「ワシも一応武士の端くれじゃ。けんど、武士なんて窮屈なだけじゃきに。武士がまっこと世のために尽くせるんかのう?」
「仮にも武士のくせに、なんという情けないことを言うのだ、お主は」
「おまさんは天領の人じゃきに縁のない話じゃろうが、諸藩では“脱藩”とゆうて、藩士をやめる人間もおるがぜよ」
「脱藩?」
「ああ。脱藩して、窮屈な藩士の身分を返上したいゆう気持ちは、ワシも分からぬではない。特にワシなんぞは郷士という下士の身分じゃき、さして士分が惜しいとも思わん。まあ、今のところは脱藩する気など、さらさらないがの」
「そんなふうに脱藩する連中は、そこまでして一体、何をしたいというのだろう?」
「さあな。それは当事者になってみないと分からぬだろう。けんど、何をするつもりと言えば、勝蔵さんこそ、武士になって何をするつもりかえ?」
「いや、その……、それはやはり、このご時世、武士であれば尊王攘夷をやるべきなんじゃないのか?」
「ほほう。勝蔵さんの口から尊王攘夷という言葉を聞くとは意外じゃのう」
「千葉家の方々も皆、尊王攘夷を強く主張しておられるし、我が甲州の師、武藤先生も唱えておられる。おそらくこれは、間違った考え方ではあるまい」
「確かに当今、尊王攘夷は志士の条件じゃ。ワシもそれが間違っているとは思わん。けんど、ワシはどうも自分の頭で納得せぬと承服できぬ性質(たち)でのう。今のところ、それに命を懸けるつもりはないがじゃ」
「相変わらず、いろいろと小難しいことを考える男だな、お主は。そんなデカい図体で、小汚い(なり)をした男がそんなことを考えてるなんて、(はた)から見れば誰も想像できまいよ」
「小汚いは余計じゃ。デカい図体と言えば、勝蔵さんも他人(ひと)のことは言えんじゃろう?」
「そりゃまあ、そうだ」



 さて、この年も暮れて翌年の嘉永七年(1854年)に入ると、一月そうそうペリー率いる黒船艦隊が、今回は数隻ばかり数を増やして再び江戸湾へやって来た。
 こんなに早く戻って来るとは思っていなかった幕府は、やはり慌てた。
 が、それ以上に品川台場の建築を任されていた江川が慌てた。
 さすがに台場はまだ完成していなかった。
 このあと三月には日米和親条約が締結されたのだが、三基の台場が完成したのは、その翌月の四月であった。とはいえダンプやクレーン車といった機械もないこの当時、八ヶ月という短期間で埋め立て工事を完成させた江川の仕事ぶりは「安五郎や久八の悪事を見逃す」という犠牲を払っただけあって、見事な実績を残した。
 ペリーは日米交渉を済ませたあと、条約によって開港地となった箱館(函館)と下田へ行って港を視察した。そして琉球(沖縄)にも立ち寄り、六月、日本を去って帰国した。
 ただし箱館と下田が開港されたといっても水、食料、石炭などを有料で外国人に供給する程度のことで、自由な貿易活動を許したわけではない。それが許されるのは、四年後の日米修好通商条約が締結されてからのことである。

 などと江戸湾や下田が騒がしくなっているのとは裏腹に、海から遠く離れた甲州にいる勝蔵は、普段通りの生活を送っている。
 勝蔵は久しぶりに八反屋敷の賭場に顔を出してみた。
 するとそこで、親友の玉五郎を見かけた。金川(かねがわ)を渡った先にある一宮の塩田(しおだ)村に住んでいるので「塩田の玉五郎」と呼ばれている男だ。元は小田原藩士であったというが今は塩田村に住みついて髪結いの仕事をしている。勝蔵とは不思議と気が合い、歳は勝蔵より二つばかり上だが以前から時々つるんで遊んでいる関係だ。
「よう、玉五郎、景気はどうだい?」
 と勝蔵がいつものように声をかけたところ、返事がない。こっちを振り向きさえしない。丁半博打の盆茣蓙(ござ)をじっと無表情に見つめたまま、玉五郎は次々と勝負に金を張りつづけている。
(どうしたんだ、こいつ?どっか具合でも悪いんじゃねえのか。真っ青な顔をして……)
 といった勝蔵の心配をよそに、その後も玉五郎は勝負を張りつづけ、あれよあれよという内に大負けして持ち金を全部やられてしまったようだった。
 この日は勝蔵もツキがなく、あらかた持ち金をやられてしまったので屋敷の外へ出ると、そこに玉五郎が立っていた。それで勝蔵が声をかけた。
「そんな所につっ立って何をしているんだ、玉五郎?今日のお前は何だか変だぜ。俺に用事があるんなら、賭場の中で声をかけりゃ良いじゃねえか」
「お前さんに大事な用があって、ここで待ってたんだ」
「おっと。俺に金を借りようとしたってダメだぜ。俺もたった今、やられちまったところだからな。お前も今日は、派手にやられたようだなあ」
「有り金ぜんぶ、やられちまったよ。ほとんど借りた金だったが」
「そりゃあ、またあの若女房から大目玉をくらうな。お気の毒さま」
「いや、その心配はねえ……。それで、あらためてお前さんに用がある。実は死体を二つ、片づけてもらいてえんだ」
「何、死体だと?一体、誰の死体だ?」
「俺と女房の死体だ」
「……!」
「今朝、女房が病気で死んじまった。ちゃんと墓を建てて、坊さんに読経もあげてもらいてえのに、金がねえ。それで有り金はたいて賭場で増やそうとしたんだがダメだった。もう女房も死んじまったし、この世に未練はねえ。俺はこれから首をくくって死ぬ。墓はいらねえから、せめて俺と女房の死体をどこか同じところに埋めてくれりゃ、ありがたい。世話をかけてすまねえが、あとの事はよろしく頼む、勝っちゃん」
「バカ野郎!」
 と言って、勝蔵は玉五郎の顔をぶん殴った。玉五郎は、えんえんとガキのように泣き出してしまった。

 このあと勝蔵は玉五郎を連れて、戸倉の堀内喜平次のところへ向かった。例の山持ちの資産家で、勝蔵の叔父代わりをしている男だ。
 勝蔵としては、父の嘉兵衛から金を借りるのは抵抗があった。もらった金を賭場でスッてしまった直後だったこともあるが、そもそもこうしてしょっちゅう遊び歩いている勝蔵は近ごろあまり嘉兵衛との折り合いがよくない。兄の三郎左衛門がしっかりと農業に打ち込み、すでに女房、子どもまで養っているのとくらべて、あまりに勝蔵の放蕩(ほうとう)ぶりが目立っているのだ。それでここは一つ、喜平次を頼ろうと思って戸倉へ来たのだった。

 勝蔵と玉五郎が頭を下げて事情を話すと、喜平次はポンと五両を放り投げてよこした。
 これだけあれば、ちゃんとした墓を建てて、寺の坊さんに読経もあげてもらえる。
「勝っちゃん、すまねえ。この恩は一生かけて必ず返す」
「俺は何もしちゃいねえよ。礼を言うなら戸倉の旦那に言いな。それと、間違ってもその金を持って賭場なんかに行くんじゃねえぞ」
「行くもんか。これからすぐに棺桶屋へ行って、女房の棺桶を買ってくらあ」
 と言って玉五郎はすっ飛んでいった。

 それから喜平次が勝蔵に、言い聞かせるような口調で語りかけた。
「勝蔵よ。こうやって、いつまでもワシをアテにできると思うな。そろそろお前自身が大きな仕事をする男にならねばいかんぞ」
「そうは言われても、俺はケンカぐらいしか能がない男だしなあ」
「ところで話は変わるが、お前は竹居の安五郎が新島から島抜けしたという噂を聞いているか?」
「ええっ!本当ですか?島抜けなんて言ったら、大罪中の大罪じゃないですか!?」
「そうだ。しかもただの島抜けじゃない。伝え聞くところでは、どうやら逃げるときに島の名主まで殺したらしい」
「うはあ。とんでもねえ話だ。それで、無事に逃げられたんですか?」
「今のところ、安五郎が捕まったという話は届いてない。おそらくどこかで潜伏しているのだろう。ひょっとすると、いずれこの甲州にひょっこりと顔を出すかも知れない」
「へえ~。しかしその話は当然、甲府の三井卯吉や、手下の祐天仙之助も知っているんでしょう?」
「もちろん知っているだろう。なにしろ奴らは幕府の目明しだからな。奴らは安五郎が帰って来ることを恐れるだろうし、逆に、今度こそ安五郎を捕まえて極刑を科そうとするだろう。どのみち甲州博徒たちの争いは、これから激化するに違いない」
「えらいことですねえ」
「他人事ではないぞ」
「はあ?」
「前にも言った通り、お前はこの地域一帯を守る男にならねばいかん。もし安五郎が戻ってくれば、お前は安五郎と一緒に戦うことになるかも知れんのだぞ」
「俺に、博徒になれって言うんですか?」
「じゃあお前は、お前の望み通り、武士になれる見込みがついているのか?」
「……」
「別に、今すぐどうこうしろ、と言うわけじゃない。とりあえず、そういう話も一応、お前の腹におさめておけ、ということだ」
(俺が武士じゃなくて、博徒になる……?)
 勝蔵、二十三歳。武士になるのか、博徒になるのか、人生の岐路が否応(いやおう)なく、すぐそこまで近づきつつあった。



 勝蔵は黒駒にいて時間のある時はたびたび武藤家の道場へ来て、ここに通っている剣士たちに稽古をつけている。江戸の千葉道場で正式に北辰一刀流を習っている勝蔵にかなう相手など、この辺りには一人もいない。勝蔵がここで師範の立場になったのは自然なことだった。
 この日、勝蔵は猪之吉を連れて武藤家の道場へやって来た。
「あら、お二人でやって来るなんて珍しい」
 と、お八重が、門から入って来る二人を見かけて言った。彼女はこの日、兄藤太と一緒に武藤塾へ来て家事手伝いをし、そのあと庭のそうじをしていたのだった。
「やあ、お八重ちゃん。久しぶり。今日から俺も兄貴に剣術を習うことになったんだ」
「へえ~、そうなの。ようやく願いがかなって、良かったわね」
「俺の得意な弓に、そのうえ剣術の腕が加われば鬼に金棒さ。これからは、俺が兄貴を守ってやるんだ」
「お前のようなガキに守られるようになっちゃあ、俺もおしまいだよ」
「何いってんですか、兄貴。俺ももう十六だよ。本来なら元服済みの歳なんですから」
「だからこうやって、稽古をつけてやると言ってるんじゃねえか。剣術の稽古が厳しいからって、泣き言をいうなよ」
「へい、兄貴!」
 こうして道場へ向かおうとする勝蔵にお八重が声をかけた。
「勝蔵さん。いつものようにお茶菓子を用意しておきますから、あとで母屋へ寄ってくださいな」
「ああ、ありがとう、お八重ちゃん。稽古が終わったら寄らせてもらうよ」
 そう言って勝蔵はニッコリと微笑み、それから道場へ向かった。

 二人が道場へ入っていったあと、武藤藤太が妹のお八重のところへやって来た。
「あら、お兄様」
「いや、まったく勝蔵も頼もしくなったものだ。今やここは武藤道場じゃなくて、小池道場といったところだな」
「本当に勝蔵さんは頼もしくなられました。これでお兄様も、剣術道場は勝蔵さんにお任せして、好きな学問に打ち込めるようになったのだから、嬉しゅうございましょう?」
「まあな。勝蔵の腕前ならここで十分、道場主がつとまるだろう。どうだ、お八重?そのときは勝蔵の嫁さんになって、一緒に道場の面倒でも見るか?」
 これを聞くとお八重は、耳と頬を真っ赤にしながら、
「まあ!い、いきなり何をおっしゃるの?!お兄様ったら」
 と言ったっきり、ほうきを投げ捨てて母屋へ駆け込んでしまった。
 お八重はこの時まだ十四歳だが、この当時の感覚であればそろそろ嫁入りのことを意識しておかしくない年頃だ。
 勝蔵と夫婦(めおと)になることを想像すると、お八重の頭は何も考えられないほど激しく動転し、心臓の鼓動が激しくなるのを抑えきれなかった。そして母屋の中で胸を押さえて立ち尽くしていた。

 しかしながら、やや唐突な話だが、実は勝蔵が惚れている女は、今、甲府の遊女屋にいるのだ。
 むろん相手は遊女屋の女郎で、純愛と言えるような代物ではない。いや、純愛どころか正直いって、性愛としか言いようがない相手である。結婚相手とするには、当然ながらあまりに不適格な相手だ。
 それゆえ正式な結婚相手の選択肢として見れば、お八重もあり得ない相手ではない。また、逆にこちらはあまりに高嶺の花ではあるが、千葉道場の佐那なども、候補の一人と言えないこともないだろう。



 それからしばらくのち、勝蔵は再び江戸へ剣術修行のために出てきた。
 初夏の頃には土佐へ帰る、と以前龍馬から聞いていたので、帰る前に一度その(つら)を見ておきたい、という気持ちもあった。
 勝蔵にとっては憧れの女性である佐那と会えるのを楽しみにしている、というのは言うまでもない。

 道場に着くと、龍馬は相変わらず薙刀の稽古をしていた。
 ところが、今度はそこに佐那も一緒に加わっていた。二人は互いに向き合い、薙刀の形稽古をしているところだった。当然ながら薙刀術を得意とする佐那が手ずから龍馬にいろいろと指導するかたちだ。彼女は龍馬と一緒にいきいきと薙刀を振るっていた。

 あとで勝蔵が師匠の重太郎に尋ねると、龍馬は千葉家の中でなかなか評判が良いらしい。北辰一刀流の薙刀術の習得に熱心なことも含めて、重太郎は龍馬の人格をかなり評価しているようだった。
 ちなみに現在の通説では、
「坂本龍馬は北辰一刀流の免許皆伝の腕前を持っていた」
 ということになっている。それはこの四年後、龍馬が「北辰一刀流長刀兵法目録」を千葉定吉から授けられ、その目録が現在も残っていることに由来している。目録には定吉の名前の他に兄周作、息子重太郎、さらに佐那も含めた三人の娘の名前まで記されている。
 娘の名前まで書いてあるなんて、こんな珍しい目録を持っているのは、やはり龍馬という個性的なキャラクターのなせる技であろう。
 と、一般的には思われがちだが、実はこの目録は、そこに記載されている技名などから推察すると「北辰一刀流・薙刀術」の目録であった可能性が高いという。そうであれば実際、薙刀は女性がよく習った武術であり、目録に佐那たち三人の名前が記されているのも「なるほど」と、うなずける。

 とにかく勝蔵が道場で見かけた二人の雰囲気からして、
「どうやら佐那は、龍馬に惚れているらしい」
 ということが、そこはかとなく感じられた。
(まったく、なんという手の早い男だ……)
 と龍馬のことを呆れはしたが、勝蔵にとってもこの坂本龍馬という男は「人をひきつける、何か得体の知れない魅力を持っている」と以前から感じており、こういう結果となったことを、自分でも不思議なぐらい自然と受け入れてしまった。

 初夏となり、龍馬が土佐へ帰ることになった。
 勝蔵は途中まで一緒に付き合って見送ることにした。歩きながら勝蔵は龍馬に話しかけた。
「また、江戸へ戻ってくるのだろう?龍馬」
「ああ。もっと剣術を修行して、もっと世の中のことも知りたいきに、いずれまた、江戸へ戻って来るつもりじゃ」
「お主が戻って来ぬと、お佐那さんが悲しむことになるぞ。もし彼女を泣かせるようなことがあれば、俺がお主のところまで飛んで行って、張り倒してやるからな」
「何をいうがか、勝蔵さん。ワシとお佐那さんは、そうゆう仲ではないぜよ。勘違いされては困るきに。まっこと困ったお人じゃ。それはそうと、次にワシが江戸へ出て来た時は、勝蔵さんは武士になっておるんかのう?」
「さあ、どうかな。案外、武士や役人から追われる身になっているかも知れんな」
「そりゃあ、いかんちゃ。役人に追われるようになっては、人間、終わりぜよ。お互い、そんなことのないように生きたいもんじゃ」
「俺はともかく、お主のような真っ当な人間が、そんなことになるなんてあり得んだろう。俺が保証する」
「いや。人生、一寸先は闇じゃ。何が起こるか分からんぜよ。……それじゃあ勝蔵さん、見送りはここまでで結構じゃ。お達者でな」
「お主こそ、達者でな。また会おう」
 こうして勝蔵は龍馬と別れた。



 さて、この年の十一月四日に安政東海地震が発生し、下田の町を大津波が襲った。
 当時そこで日露の条約交渉がおこなわれており、ロシアの軍艦が津波で被害を受け、後日、沈没した。むろん、下田の町も津波によって大きな被害を受けた。
 また、次郎長の地元清水のある駿河、ならびに遠江でも地震や津波で大きな被害が出た。津波の被害は太平洋岸の広範囲に及んだという。

 黒船来航に追い打ちをかけるように大地震が起きたことで、この年の十一月二十七日、元号が嘉永から安政へと改元された。
 それでこの嘉永七年は、のちに安政元年と呼ばれることになる。

 そして黒船来航、安政東海地震と続けざまに大事件が重なり、その対応に追われる中、翌安政二年(1855年)の一月、江川英龍が過労死同然のかたちで病死した。
 これらの事件のために伊豆と江戸を何度も行き来していたのが体の負担となったのである。
 まだ五十五歳の働き盛りだった。
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