第70話 博徒勝馬ヲ斬ニ処ス(最終回)

文字数 7,389文字

 一月下旬に伊豆で逮捕された勝蔵が、その捕り手である増田と共に甲府へ着いたのは二月二日のことだった。
 そして甲府城の東にある境町の牢屋へ入れられた。

 それから簡単な取り調べがあり、それが済んだあと、勝蔵自身はすぐにでも東京へ送られると思っていたのだが、いつまで経っても東京へは送られなかった。
 そのことによって勝蔵の心に疑心暗鬼が生じた。
(これは一体何なのだ?脱走の罪を問われているのではないのか?)
 実は勝蔵がお(かみ)に捕まるのは、これが初めてのことだった。
 例えば次郎長などは若いころに三河で赤坂陣屋の牢屋へぶち込まれて百叩きの刑を受けたことがあり、博徒であれば牢暮らしなど珍しくもない。むしろ勝蔵のような男のほうが珍しいぐらいだ。
 もちろん勝蔵もそういった博徒の世界にいた人間なので他人から聞いて牢屋や吟味役人のことをある程度は知っていたが、自分が直接経験するのはこれが初めてだった。
 しかもこのころは御一新から間もないということもあって、幕府時代と明治時代という二つの司法制度が混在したひどく雑然とした状態だった。司直(しちょく)の側もこの時期、いろいろと手探りの部分が多く、近代的な司法制度の確立などはまだまだ程遠い状態である。
 もちろん憲法も刑法も刑事訴訟法も、まだない。それゆえ幕府時代と同じく(例えば井伊直弼の安政の大獄がそうであったように)誰かしら力のある人物が裁判に人為的な介入をすることも可能だった。
 初めての牢暮らしで、しかもこのような制度変革の過渡期に入牢させられた勝蔵からすると、真っ暗な奈落の底へ突き落とされて右も左も分からない、といったような不気味さを感じていた。

 そんな中、勝蔵は吟味役人に問い(ただ)されるまま「口供書(こうきょうしょ)」つまり供述調書を作らされることになった。
 後世から見れば、このとき牢屋で作られた勝蔵の口供書が、彼の人生を後世へ伝える一番貴重な史料となってしまった。

 勝蔵は自分の生まれ育ちについて、また博徒の世界へ入って竹居安五郎と共闘したこと、さらに祐天仙之助・国分の三蔵・犬上郡次郎と抗争したことなどをありのまま自供した。
 むろん、そのあと京都へ上って白川家と接触し、赤報隊に加わるにあたっては岩倉や西郷といった新政府の要人とも間接的に関係し、それから四条総督の下で東北戦争に従軍し、明治天皇の行幸(ぎょうこう)供奉(ぐぶ)したことなど、すべてありのままに語った。
 その中で祐天・三蔵・犬上との抗争に関連して、祐天襲撃の際に伊三郎を殺害し、犬上襲撃の際に太兵衛と犬上を殺害したことも自白した。

 勝蔵がなぜ、これらの殺人事件について素直に自白したのか?
 その理由は分からない。
 吟味役人の誘導尋問がうまかったのか?それとも事前にある程度ウラを取られていて仕方なく語ったのか?
 またあるいは、勝蔵自身がそれらの事をそんなに悪いことだとは思っていなかった、という可能性もある。
 実際、幕府時代、博徒同士の殺し合いというのは、それほど厳しくお上から追及されていた訳ではなかった。
 そんなことをイチイチ細かく罪に問うのであれば、次郎長などはこれまでずっと見てきたように保下田の久六や都田吉兵衛の殺害、また雲風一家襲撃事件や荒神山の事件など数え切れないほどの殺人事件を犯している。が、次郎長がそれらの罪を問われて死罪になることはなかった。
 やったやられたの報復合戦は「博徒のならい」であり、勝蔵の子分だって何人も殺されているのだ。博徒同士の殺し合いというのは、そもそも「そういうもの」として一般に認識されていたのである。
 そして一番肝心なことは、もしこれらが罪であったとしても、御一新によってすべて「大赦(たいしゃ)」になっている、ということだ。
 大赦されなかったのは「朝敵の罪」だけで、それ以外は一切の罪が帳消しとなった。
 そして「朝敵の罪」という点でいえば、勝蔵は逆に官軍の隊長として維新戦争に従軍し、朝廷のために戦った。その功績によって御親兵の隊長にもなっている。

 どう考えても御一新前の博徒時代の殺人事件が罪になるとは思えない。
 自分は無罪である。
 勝蔵はそう確信していた。
 だからそれらの事も平気で自白した。

 しかし結果的には、この三件の殺人事件が勝蔵の命取りとなった。

 とはいえ、八月まで断続的につづいた取り調べ作業の段階では、やはりまだ、勝蔵は裁判を楽観的に考えており、まさか自分が死罪になるとは考えもしなかった。
 勝蔵の供述を元に作成した調書を吟味役人が勝蔵に読んで聞かせ、それで間違いがなければ勝蔵が調書に署名して承認するのだが、その調書によると、あくまで勝蔵の罪は、
「隊から無断で離れ、その始末に不届きな点があった」
 という内容になっており、勝蔵もそれを認めて署名した。
 勝蔵も吟味役人もこの段階では、その程度の裁判になるであろう、と思っていた。

 ところが甲府県が東京の政府へ(うかが)いをたてる量刑見込みの申し状では、それら三件の殺人事件の経過を事細かに述べたあと、最終結論として、
「大赦前の犯罪には(そうら)えども、謀殺故殺の罪はまぬがれ(がた)きにつき、斬罪申しつくべき哉」
 と、勝蔵を斬罪に処すよう申請しているのだ。

 「大赦前の犯罪ではあるが」とわざわざ断ったうえで「それでも斬罪に処すべきである」と、まったく理不尽なことを述べている。
 しかし今川徳三氏の著書『万延水滸伝』によると、そういった大赦前の犯罪であっても処罰された例は勝蔵以外にもいくつかあり、決して勝蔵だけが特別というわけでもないようである。
 要するに明暗を分けたのは「運不運」、ただそれだけのことだった。

 くり返しになるが この頃はまだ憲法も刑法も刑事訴訟法もなく、三権分立すらまだ確立されていない。司法と行政がそれなりに分離されるのは翌明治五年のことである。
 そして幕府時代と明治時代という二つの制度が混ざり合って混乱している状態でもあり、「権力者による裁判への恣意(しい)的な介入」も容易なことだった。

 確実なことは何一つ分かっていない。
 が、東京の政府もしくは甲府県庁の中に、
「何としてでも勝蔵を抹殺したい」
 と目論(もくろ)んでいた権力者がいたとしか思えない。

 現在残っている勝蔵の口供書には、勝蔵にとって都合の悪いことは記述されていても「都合の良いこと」はすべて削除されている。
 のちに処罰された赤報隊に参加していたことは記述されていても、四条総督の下で東北戦争に従軍したことや明治天皇の行幸に供奉したことなどは一切消されている。
 勝蔵がそれらのことを語らなかったはずはない。口供書であるだけに、犯罪と直接関係ないことが省かれてしまうのは仕方がないにしても、不自然な感は否めない。

 先述したように、次郎長はあれほど何度も殺人事件を犯していながら死刑にならなかった。
 それはなぜか?
 次郎長が政府に捕まらなかったから、というわけではない。
 実は次郎長も明治十七年に、その頃あった「博徒の大刈込」の影響を受けて逮捕され、牢屋へ入れられている。
 しかしそのころ次郎長の養子になっていた天田愚庵が『東海遊侠伝』を出版して次郎長の赦免(しゃめん)を世間に訴えた。実際のところ『東海遊侠伝』の中には次郎長が幕府時代に犯した数々の殺人事件についても書かれており、ある意味、勝蔵の殺人事件が罪になるというのなら、この『東海遊侠伝』は赦免を訴えるどころか、逆に次郎長の殺人事件を証明するような代物である。
 が、それはともかく、次郎長にとって幸いだったのは天田愚庵の他に、山岡鉄舟という政府内に強い影響力を持つ後ろ盾がいた、というのが一番大きかった。
 そして次郎長は、山岡の友人であった静岡県令の関口隆吉などの尽力もあって、すぐに釈放されるのである。

 その一方で勝蔵にはそういった後ろ盾がいなかった。
 かつて後ろ盾になってくれた武藤外記と藤太は、元々それほど強い後ろ盾でもなかったが、外記は死亡、藤太は小沢一仙の事件によって逼塞(ひっそく)状態という有り様だった。
 さらに言うと、次郎長は御一新前後の頃は大人しくしていたため、政治的な面で他人から恨まれたり(ねた)まれたりはしなかった。
 その一方で勝蔵は、尊王攘夷のために働き、官軍として活躍したことが、逆に他人から恨まれたり妬まれたりすることにつながってしまった。
 勝蔵は供述調書を作っている際、京都で関係した白川家のこと、また間接的に関係があった岩倉や西郷のことなども語ったであろう。四条総督の下で東北戦争に従軍したり行幸に供奉したことは無論のことである。勝蔵にとってそれらは誇るべきことであったし、何より「自分はこれほど朝廷に貢献した人間なのだ」と訴えたい気持ちもあったであろう。

 残念ながら、これらの訴えが勝蔵にとって悪い方向へ作用することはあっても、良い方向へ作用することはなかったと思われる。
 それらの有力者たちが実際に勝蔵を庇護するような立場にあるのならまだしも、決してそうではない。逆にそういった有力者たちの名前が出ることによって、
「博徒あがりのくせに上手いこと成り上がりやがって、生意気な奴だ」
 と政府内の役人たちをイラ立たせただけのことだろう。
 特に岩倉や西郷の名前がもし取り調べの書類に記載されていたとすれば、それを見た政府内の役人は、
「廃藩置県や海外使節(岩倉使節)派遣など、この多事多難な政局の最中、岩倉様や西郷様がほんのわずかでも無頼の博徒と関係があったなどと世間に知れれば、大問題となりかねない」
 と危惧したはずで、「この男は抹殺してしまうべきだ」と密かに手を打っただろう。

 そして一番重要なことは、この時代、「人権」などという概念は無い、ということである。
 下賤な民の命は鴻毛(こうもう)よりも軽い。
 博徒は人間扱いされないのだ。
 無宿人であるというだけで佐渡金山へ送られ、博徒が博打をしたというだけで終身刑となって八丈島へ送られる、というのが江戸時代である。
 その時代からまだ四年しか経っていない。
 博徒や無宿人といった無頼な連中が罪を犯せば死刑になって当たり前だ、という下層民を蔑視(べっし)する意識が、特に役人や上層階級にはまだまだ強く残っている。
 しかも勝蔵のように、なまじ力を持っている博徒は余計に邪魔なのだ。
 相楽総三が殺された理由と同じである。
 草莽(そうもう)や下層民が力を持つと、いずれその力は政府へ向かって来るに違いない。と、権力者が考えるのは、この当時であれば当然の感覚であった。
 そして事実、このあと多くの博徒たちが自由民権運動へ参加することになるのである。
 権力者からすれば、勝蔵を生かしておく、という選択肢は考えられなかった。



 八月に甲府県が東京の政府へ「勝蔵の死刑」を申請して以降、勝蔵を取り巻く環境は一変してしまった。
 まるで強大な台風によって釜無川の堤防が決壊した時のように、気がついた時にはすべてが取り返しのつかない状勢となっていた。いや、もしそれが事前に分かっていたとしても勝蔵一人がどうあがいたところで、この激流のような時代の流れには塵芥(ちりあくた)の如く押し流されるしかなかったであろう。

 勝蔵がそういった状況に陥っていることを知った増田は愕然とした。
 隊を数ヶ月留守にしていただけで、しかも解隊予定の隊で起きた事件だったのだから、まさかそんな重い量刑になるとは思いもしなかった。
 聞けば御一新前の博徒時代の罪によって勝蔵は死罪を申しつけられるという。
(なんとバカなことを!そんなことを言えば、世の中の博徒は全員牢屋へ入れなくてはならんぞ!)
 増田は重苦しい気持ちになった。
 自首してきたのだから首が飛ぶようなことにはならないだろう、と勝蔵を安心させてやったのが、逆に勝蔵をだますかたちとなってしまった。
(博徒の親分とはいえ、多少俺と気持ちの通じる部分もある、人の好さそうな男だったが……。あの男に悪いことをしてしまった……)
 だからといって、増田にはどうすることもできない。
 こういった「権力者による理不尽な弾圧」など、増田は幕府時代から嫌というほど見てきた。明治の世になったからといって、そのような悪弊が急に消え去ることはない。いや、むしろ今は新旧の制度が入り乱れて、訳の分からない理由で処罰される例が増えているとさえ増田には思われた。
 黒駒の勝蔵は、その犠牲者の一人となったのだ。
 増田は手を合わせて、心の中で勝蔵に深く詫びた。


 牢内の勝蔵はむろん激怒している。
 甲府県庁と政府が強引に「勝蔵の死刑」を実行しようとしていると気がついてから、牢内で暴れまくった。のたうち回った。
 そして叫んだ。
「増田伝一郎か吟味役に会わせろ!話が違うじゃねえか!」
 こんな理不尽な話があるか!俺は官軍の隊長だぞ!一体俺がお上にどんな悪さをしたっていうんだ!
 そうやって牢内で叫びつづけた。
 外にいる牢番は一言も口をきかずに、黙って立っている。こういった罪人の騒動には慣れているのだ。どうせしばらくすれば、疲れて大人しくなるだろう、と開き直っている。
 牢番の予想通り、勝蔵はそれから何日か経ったあと、声も出なくなり怒る気力も失って大人しくなってしまった。

 声は出なくとも、勝蔵の胸中は憤怒(ふんど)の念で満ち満ちている。

 ど汚え野郎どもだ。
 博徒だった俺が官軍の一員として活躍することを、よほど目障りに思っている奴が、俺を消そうとしているにちげえねえ。
 もし俺に博徒だったという経歴がなければ、こんな目には遭わねえはずだ。
 きっと博徒の命など虫けら以下としか思ってねえんだろう。
 そのくせ俺たちの力をひどく恐れているから、こうやって罠にかけてだまし討ちをしやがるんだ。
 御一新になったからといって、国を動かしている連中の脳みそは、幕府の頃と何も変わっていない。
 今でこそ、相楽総三や小沢一仙、それに水野の旦那、彼らの無念が痛いほど分かる。
 朝廷のため、新政府のため、良かれと思って働いたのに、彼らの身分が低かったばっかりにかえって「出る杭」として打たれ、首まで打たれてしまった。
 そして俺もそうされるのだ。
 人の命をなんだと思っていやがる。
 身分が何だ。
 俺たちだって人間だぞ。
 草莽(そうもう)崛起(くっき)、一君万民など、まだまだ夢のような話だ……。



 十月十二日、東京の政府(この年の七月にできた司法省)から勝蔵の判決が出た。
「博徒勝馬ヲ斬ニ処ス」
 勝蔵を斬罪にする、首を斬る、という判決だ。
 しかも「博徒」の扱いになっている。もはや官軍の隊長として扱っていない。
 そのくせ名前は博徒時代の「勝蔵」ではなくて「勝馬」になっている。すべてがいいかげんだ。
 死刑の執行は二日後の十月十四日と決定。

 その日、明け六つ(午前六時)の鐘が鳴ると、勝蔵は境町の牢屋から引き出され、上半身を縛られて馬に乗せられた。このあと市中引き回しのうえ、山崎の刑場で処刑されることになる。山崎の刑場は小沢一仙も処刑された、酒折(さかおり)の辺りにある処刑場である。
 刑場までの沿道は人波であふれている。「あの黒駒の勝蔵」が処刑されると聞いて多くの甲州人がつめかけてきた。

 その中には猪之吉、玉五郎、そして勝蔵の子分だった多くの男たちも混ざっている。
 玉五郎や子分たちは皆すでに東京から甲州へ帰って来ていた。
「境町の牢屋を襲って親分を取り戻そう」
 という声もあったが、警備が厳しくて断念した。かつての甲府勤番の連中ならまだしも、新政府になってからは武装した兵士たちが厳重に警備の任についており、しかも黒駒の勝蔵という大物を収監している境町牢は蟻のはい出るスキもないほど厳重に守られていた。
 その警備の厳しさはこの引き回しの道中も同じである。甲府中の兵士や役人たちが総出で沿道の警備についていた。
 玉五郎たちは手も足も出ない。
 せめて親分の立派な最期を見届けたい。その一念で皆が集まって来ていた。
(なぜ、勝蔵親分が殺されなければならないんだ)
 皆、無念の思いでいっぱいだ。

 猪之吉は女房や子どもを連れずに一人で来た。
 お八重は今、身重(みおも)の体だ。
 体に障る、というより、普通の体であってもこんな残酷な場面には、お八重は耐えられなかったであろう。それで娘と共に家に置いてきた。

 やがて馬の背に乗った勝蔵の姿が見え、猪之吉や玉五郎たちの方へ向かって来た。
 勝蔵のふっくらとしていた顔立ちは見る影もなく瘦せこけ、無精ひげをはやし、しかし目だけは何かをにらみつけるように鋭く光り、鬼気迫る表情をしている。
 言い伝えによると沿道の人々からは、
「勝ちゃんはかわいそうだ」
 と同情する声があちこちで(ささや)かれたという。

 そして勝蔵は猪之吉の近くまでやって来た。そのとき、
「勝兄貴!」
 と猪之吉が号泣しながら叫んだ。
 すると勝蔵はおもむろに猪之吉の方へ顔を向けた。
 口は一切開かない。
 ただ、両目をカッと見開いて、おのれの無念を猪之吉に訴えた。

「猪之吉!一君万民だ!必ず平等な世の中を作ってくれ!」

 猪之吉は勝蔵の遺志をそのように受け取った。
 それから勝蔵は猪之吉の前を通り過ぎ、山崎の刑場へと引かれて行った。

 正午少し前、山崎で刑の執行にとりかかった。
 勝蔵はもう何も考えていない。
 みっともない死に方だけはできない。潔く死につく。それしかない。
 そして足元に敷いてある(むしろ)従容(しょうよう)として座った。これから首に刀を受ける。

 勝蔵は最期にふっと、お花のことを思い出した。
 これで、ようやく向こうでお花に会える。と思うと少し頬がゆるんだ。
 ここで首斬り役の刀が一閃。
 斬首。享年四十。



 このあと明治の世で、猪之吉や玉五郎は勝蔵の遺志を受け継いで自由民権運動に加わり、名古屋の亀吉などとも共闘した。
 明治十七年の秩父事件の時には、山梨から秩父往還を通って秩父へかけつけた。噂によると一揆勢が政府軍によって鎮圧された際、猪之吉はうまく秩父から逃げのびて、その後も活動をつづけたという。



 勝蔵が斬首された翌月、すなわち十一月に甲府県は「山梨県」と改められた。
 山梨県の誕生である。

 そして年が明けた明治五年(1872年)一月、お八重が玉のような男の子を生んだ。
「きっと勝蔵さんの生まれ変わりだわ」
 とお八重が言った。もちろん猪之吉もそう思った。
 それで名前は「勝太郎」と付けた。

 今を(さかのぼ)ること、ちょうど百五十年前の話である
<終>
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