第35話 犬上討ちと伊東一派の上京

文字数 7,075文字

 勝蔵とお八重がようやく結ばれた。
 と、少なくとも猪之吉は思っている。
 ただし現実に目を向ければ、別に二人が夫婦(めおと)になったわけではない。
 そもそもなれるはずがない。幕府からお尋ね者として手配されているヤクザ者で、猪之吉や綱五郎たちと放浪の旅をつづけている勝蔵が女房など持てるはずがない。

 その勝蔵は相変わらず各地を放浪している。
 大体の場合は、親しい親分が大勢いる東海道を徘徊(はいかい)している。ここ数年、東海道は半ば勝蔵の本拠地と化しつつある。
 その一方で甲州へも折を見て密かに戻っている。例の「武藤藤太から相談された甲府城攻略計画」に備えて、たまに甲州へ戻ってきては藤太と会ったり、藤太の紹介で鉄砲を入手したりしている。それらの鉄砲は戸倉からさらに山奥へ入ったところにある炭焼き小屋に隠しておいた。

 猪之吉はもちろん、ずっと勝蔵と一緒に動き回っている。
 甲州へ戻ってきた時には、やはり一緒に武藤家へ行ったりもしている。
 猪之吉は最近、お八重に会うことはめったにない。お八重は相変わらず(ほこら)にこもって祈祷をしていることが多い。
 猪之吉の目から見ると、勝蔵とお八重の関係が以前とくらべて何か変わった、という感じはあまりしない。しかしそれでも、あまり頻繁でないとはいえ勝蔵がお八重に会いに武藤家へ行き、一晩帰って来ない、ということも何度かあった。
 だから「確実に何かが変わったのだろう」と猪之吉は漠然と思っている。


 夏に京都で禁門の変があり、水戸では天狗党の乱もあって東西で大騒動となった。
 禁門の変では長州が敗れ、天狗党の乱では水戸の尊王攘夷派が敗れた。
 要するに東西で尊王攘夷派が敗れたのだ。
 これで尊王攘夷の熱は全国的に鎮静化した。少なくとも関東ではほぼ尊王攘夷は死滅した、といってもよい。
 このような状況下で甲府城を攻略するなどできるはずもなく、藤太と勝蔵の甲府城攻略計画は自然と消滅するかたちとなった。

 ということで勝蔵は再び祐天仙之助、国分の三蔵、犬上郡次郎への復讐に注力することにした。ただし前回書いたように、勝蔵の知らないところですでに祐天仙之助は死んでいるため、彼の行方を追うのはまったくの徒労であった。


「ようやく犬上の居どころが分かりました」
 と玉五郎が富士大宮(現、富士宮市。富士山本宮(ほんぐう)浅間(せんげん)大社の近く)にいた勝蔵へ伝えに来たのは十月中旬のことだった。
 このまえ勝沼で仙之助を襲撃した際にガセネタをつかまされて失敗した玉五郎は、その汚名返上のためにも今回は入念に調べ上げて犬上の居どころをつきとめた。
 その場所は、また勝沼だった。勝沼の等々力(とどろき)村にある万福寺という寺で妻と娘の三人で暮らしている、ということが分かったのだ。
 好機逸すべからず。すぐに近隣にいた子分たちを呼び集めて二十人の部隊がそろった。その中にはもちろん綱五郎や猪之吉もいる。
 十月十五日に富士大宮を出発して甲州へ戻り、十七日の夜、全員で勝沼へ向かった。各自それぞれ槍やら長脇差やら得意な得物を持っているが、猪之吉は今回、捕り物の際に捕り方が使う六尺の棍棒を持ってきた。
 夜の田舎道を足早に進みながら、綱五郎が勝蔵に尋ねた。
「親分。犬上の女房や子どもはどうします?やはり斬りますか?」
「女房が刃物でも持って暴れりゃあともかく、なるべく女子供は放っておいてやれ」
「だけど、こういう時は子どもも殺すのがこの世界のしきたりでしょう。将来、(かたき)討ちにやって来るのを防ぐために」
「心配するな。どうせ俺はその頃まで生きちゃいねえよ」
「またまたご冗談を。まあ、一応聞いた話では子どもは男じゃなくて女のようですしねえ。女なら多分、敵討ちの恐れもないでしょう」
「男だろうと女だろうと、子どもを殺すとあとあと寝覚めが悪くなりそうでいけねえや」
 犬上は竹居安五郎を罠にかけたあと、吉田村(富士吉田)に逃れて潜伏し、そこで

という女性を女房にして静かに暮らしていた。そして昨年、娘が生まれた。
 このころ犬上が吉田から勝沼へ転居していた理由は定かではない。おそらく一ヶ所に長く留まっていると勝蔵たちに居場所を知られて危険だと思って転居したのだろうが、それならなおのこと甲州以外の土地へ逃げれば良かったものを、よりによってなぜ勝沼へやって来たのか、理解に苦しむ。

 勝沼の日川(ひかわ)を渡って万福寺までもう少しというところで、長脇差を腰に差した博徒風の男が一人で歩いているのを見かけた。
 勝蔵の一隊の中にその男のことを知っている人間がいた。
「あれは国分の三蔵の子分で、四日市場の太兵衛(たへえ)という男だ。間違いねえ」
 宿敵三蔵の子分なら、勝蔵の子分で顔を知っている者がいるのも道理だった。しかも三蔵の子分ということは犬上の仲間である可能性が高い。
 太兵衛は瓢箪(ひょうたん)酒を飲みながら気持ち良さそうに夜道を歩いていたところ、勝蔵たちの一隊が近づいて来るのにようやく気づき、瓢箪酒を放り出してあわてて逃げ出した。
(太兵衛を犬上のところへ逃がしては、犬上に襲撃を知られてしまう!)
 そう思った玉五郎がすぐに数人を率いて急いで太兵衛を追いかけた。
 太兵衛は必死で逃げる。別に犬上に何かを知らせるつもりで逃げるのではない。単に自分の命が惜しいから逃げるだけのことだ。
 が、一町ほど逃げたところで何かに蹴つまずくようにして転んだ。それで、たちまち玉五郎たちに取り囲まれた。
「助けてくれ!何でもするから、俺を殺さねえでくれ!」
 と太兵衛は叫んだ。
 積年の恨みがある三蔵の子分を助けるわけがない。その叫びを無視して、玉五郎たちは寄ってたかって太兵衛を斬り殺した。

 玉五郎は勝蔵のところへ戻って来て太兵衛を処分したことを伝えた。
 それを聞いて皆の士気はあがった。犬上を討ち取る前の血祭りだ、こいつは幸先が良いぜ、と。
 そのあと間もなく一隊は万福寺に着いた。
 そこそこ広い敷地のある寺で、犬上の家族はこの寺の離れに住んでいるという。人の気配はなく、すでに皆、寝静まっているようだった。
 勝蔵たちは玉五郎の案内で静かに寺へ侵入し、離れの家屋に行き着いた。そして事前に勝蔵が作戦を伝えていた通りに子分たちは家屋を取り囲んだ。猪之吉の一隊は裏口へ回った。
 ドカッ!
 と雨戸を蹴破って勝蔵たちが屋内へ入ると、座敷のやや奥のほうで親子三人が蚊帳(かや)に入って寝ていた。
 驚いた犬上と女房は目を覚まして起き上がった。
 勝蔵が犬上の顔を見るのは三年ぶりだ。寝ぼけまなこの表情だが、面長で目つきが鋭く、どことなくイカれた感じのする表情はあの時のまんまだな、と思った。
「とうとう見つけたぞ、犬上郡次郎。よくも安五郎親分を罠にはめてくれたな。てめえだけは絶対に許せねえ。覚悟しやがれ」
 そう言ってから勝蔵は、女房と娘を犬上から分けさせるため子分に指示を出そうとしたところ、そんな仏心を出したのが失敗だったというべきか、その一瞬のスキを突いて犬上は素早く枕元にあった太刀をつかみ、飛ぶような勢いで奥へ逃げて行った。
「てめえ、待ちやがれっ!」
 と、すかさず勝蔵たちが座敷にあがって追いかけた。

 このとき裏口で待ち受けていた猪之吉は、かつて猟師だった頃の感覚に戻っていた。
 表口から入った本隊が獲物である犬上をこっちへ追い立ててくるだろう。獲物がやって来たら一発で仕留めなければならない。
 やがてドタドタッと足音が聞こえ、犬上がこちらへやって来る気配がした。
(来たな)
 と思った次の瞬間、犬上が家の中から飛び出して来た。
 それを読んでいたかのように、猪之吉は六尺棒で犬上の足をなぎ払った。
 いくら剣豪の犬上といえども、さすがにこれはかわせない。見事に足をすくわれて前方へゴロゴロッと転倒した。
 そこへたちまち他の子分たちが殺到し、槍や長脇差で散々に犬上を突き刺した。
 やがて勝蔵が駆けつけて来た頃には、すでに犬上は半死半生の状態だった。
 そして勝蔵が犬上の首をはねた。

 屋内では女房の

が二歳の娘まさえを抱いてガタガタと震えていたが、こちらはそのまま放置して勝蔵たちは寺から去って行った。

 余話を一つ。
 女房の

は後に再婚して九人の子どもを産んだ。そして娘のまさえは明治三十一年に山梨県知事の小野田元熈(もとひろ)から県庁に呼び出され、父の死についてねぎらいの言葉をかけられたという。小野田は館林藩士の家に生まれ、犬上郡次郎とは親戚であった。

 余話をもう一つ。
 こういった博徒同士の殺し合いで子どもまで殺すのは、よくあった話のようである。
 かの有名な国定忠治が裏切者の勘助を殺した際(浅太郎という部下に殺させたともいう)勘助の息子の勘太郎(太郎吉ともいう)まで殺した。むろん、生かしておいてはのちに敵討ちをされる恐れがあるので、そうしたのである。
 この話がのちに「忠治は子どもを殺さずに助け、その遺児を連れて逃亡の旅に出た」という話に置き換えられて「赤城の子守唄」という物語になった。さすがに筆者の年齢ではあまり馴染みもなく、伝え聞く程度でしか知らないのだが戦前に東海林(しょうじ)太郎が「泣くなよしよし、ねんねしな」と歌って大ヒットした「赤城の子守唄」が、まさにそれである。

 もっとも中国大陸では昔から「九族皆殺し」という、もっと徹底したかたちで敵対者を殲滅(せんめつ)していたので昔はこういった発想がそれほど異常でもなかった。




 勝蔵が富士大宮を出発した十月十五日、その同じ日に新しく新選組に加わることになった隊士たちが江戸を出発して京都へ向かった。
 彼らはのちに新選組を脱退して御陵(ごりょう)衛士(えじ)と名乗ることになる伊東甲子太郎(かしたろう)の一派である。
 この中には、ちょうど一年前の十月、横浜から逃げ出してきた篠原泰之進、加納道之助、服部三郎兵衛たちもいる。

 事の発端は八月に藤堂平助が京都からやって来て伊東に会ったことから始まった。
 周知の通り、藤堂平助は浪士組結成当初からの一員で、これまで新選組で大いに活躍してきた剣士である。有名なところではこの年の六月にあった「池田屋事件」で勇名を()せ、眉間(みけん)に名誉の傷を負った。
 その藤堂が、あとから江戸へやってくる近藤たちの先乗りとして江戸へ来て、深川佐賀町にある伊東道場の当主、伊東大蔵(おおくら)(のちの甲子太郎)に新選組への加入を説いたのだ。藤堂は近藤の試衛館に出入りする前は千葉道場や伊東道場で北辰一刀流を学んでおり、党派的に言えば近藤の弟子というよりも伊東の弟子という立場に近い。

 伊東大蔵は常陸(ひたち)志筑(しずく)(現、かすみがうら市)から江戸へ出てきた剣術家である。元の姓は鈴木。年齢は三十一歳。
 正式な武士ではないが概ねそれに近い生まれ育ちなので文武ともに高い素養を身につけている。ついでに容貌も秀麗で、どこへ出しても恥ずかしくない君子人である。出身地が水戸に近く、しかも水戸とつながりが深い北辰一刀流を流派としているだけあって政治思想が尊王攘夷であるのはごく自然なことと言えるだろう。
 そしてそのとき藤堂は伊東に対して、
「近藤は当初の目的だった尊王攘夷をかなぐり捨て、いたずらに幕府の爪牙(そうが)となって奔走しております。まったく憤慨にたえません。いっそ近藤が江戸へ出てきた時に彼を暗殺し、伊東先生に新しく隊長になってもらって新選組を尊王攘夷の党に改めたいと思い、私は先乗りで江戸へ参りました」
 と口走った、という話が永倉新八の証言をまとめた『新選組顛末記』に載っているが、永倉はその場に居合わせたわけではないのでこれは相当眉唾(まゆつば)モノだろう。
「近藤を暗殺する」
 などと口走ればどうなるか?近藤と土方の恐ろしさは藤堂が身をもって知っているはずで、しかもそれを永倉に口外するなど、いくらなんでもあり得ないだろう(一応その直前に永倉は近藤に反発して事件を起こしているので、その点では「藤堂の同志」ではあるが)。
 まあ、そこまで過激な話をしたわけではないにしろ、伊東に新選組への加入を勧めるにあたって「伊東先生に新選組の進路を尊王攘夷へ矯正(きょうせい)してもらいたいのです」ぐらいの事はおそらく言ったであろう。

 そして九月には局長である近藤が永倉、武田観柳斎、尾形俊太郎などの幹部と共に江戸へやって来て幕閣と面談し、さらに新規隊員の募集などをおこなった。
 その間に、藤堂から話を聞いた伊東が近藤を訪問して、時勢について、また新選組のあり方について大いに話し合った。

 この近藤との面談のあと、伊東は深川佐賀町の道場に同志たちを集めて会合を開いた。
「我々は近藤君の誘いに応えて京へ上るべきか、それとも江戸に残るべきか、諸君らはどう思うか?ご意見をうかがいたい」
 問いかけられた面子は篠原泰之進、加納道之助、服部三郎兵衛、三木荒次郎(伊東の実弟。後の鈴木三樹三郎)、佐野七五三之助(しめのすけ)(篠原たち同様、かつての横浜勤務者)の他、伊東道場の門人の内海次郎、中西登の計七名である。
 そこで最年長の篠原が伊東に質問した。
「どう思うか、といったって、伊東さんはすでに京へ行く決心をしているんじゃないのかね?」
「それは確かにその通り。しかし、皆の意見も参考までに聞いておきたいのです」
「ハハハ。伊東さん、それがあなたの悪いクセだ。あなたは非の打ち所のない才子であり、君子でもある。だが人の上に立つ大将であれば、もっと強引に皆を引っ張っていってもいいじゃないか。例えば『私が新選組に入るからには、いつか私が新選組を乗っ取ってみせる』とか、それぐらいのことは言ってもいいでしょう?」
「そんな野心家のようなマネは私には分不相応です。近藤君や土方君はそういった類いの人間らしいが、そんなことで彼らと張り合うつもりはありません。私は私のやり方で、誠の心をもって新選組を支えるつもりです。それはともかく、そう言われるからには、篠原さんは我々が上京するのに反対ではない、という事でよろしいか?」
「いや、まだ疑問がある。今さら遅れて新選組に入るんじゃ我々の待遇は冷や飯食い扱いになるんじゃないのかね?」
「その点は近藤君から確約を取ってあるのでご懸念無用です。我々は入隊後、しかるべき要職に就くという約束になっています」
「聞けばその近藤や土方というのは相当物騒な男らしいが、本当に一緒にやっていけるのかね?どうやら彼らの考え方は尊王攘夷、というよりも佐幕攘夷、といったところでしょう。なるほど攘夷の点では一致しているが、そんなことは誰だって当たり前のことだ。だとすると、いずれ『幕府をどうするのか?』という点で、彼らと対立するんじゃないのかな?」
 ここで三木荒次郎が口を挟んできた。
「朝廷よりも幕府が大事だ、なんて言うようなら、そんな奴らは斬り殺しちまえば良いんだ」
 三木はその昔、酒の飲み過ぎで養家から離縁され(そのせいで伊東の実家である鈴木の姓も名乗れなくなった)、しかも酒の飲み過ぎで志筑藩のお役目をクビになったことがあるぐらい、少々軽率なところがあった。
 それで伊東が(さと)すように言った。
「黙りなさい、荒次郎。そんな乱暴なことを言うもんじゃない。むろん、我々は尊王攘夷を志している。それなのに、水戸の筑波勢(天狗党)の力になれなかったことは返す返すも残念だ。近藤君や土方君については実際に向こうへ行ってからもっと話をしてみないとどうなるかは分からない。しかし彼らだって木石ではあるまい。私が誠の心で接すれば、いずれ必ず皇尊(すめらみこと)の尊さをわきまえてくれるでしょう。もし万一、私が京師で死ぬことになっても、皇城のある京師で(たお)れるのなら本望です」
 このようにして伊東から京都行きの赤心を聞かされては、誰も反対などできるはずがない。
 というより、彼らも京都へ行って新選組に加わることにそれほど反対してはいなかった。
 加納などは「これでようやく俺も武士らしい仕事ができる」と意気込んでいるし、他の連中も腕に自信のあるひとかどの剣士ばかりだ。
 京で名を高めている新選組とやらがどれほどのものか、一つ腕試ししてやろうじゃないか。
 大体皆、そんな感覚だ。それで皆でそろって新選組に加入することになったのだった。

 ただし問題なのは尊王攘夷の思想である。
 彼らの盟主である伊東がそうであるように、彼らは皆、尊王攘夷の思想を抱いている。
 一方、近藤がその思想を抱いていないかというと、実はそれも違う。
 近藤も尊王攘夷である。この時代、一部の学者や識者を除けば、少なくとも剣を握っているような者たちは全員尊王攘夷だったと言っても過言ではない。
 ただし、そこで究極の選択を迫られれば伊東は京都で天皇のために死ぬことを選び、近藤や土方は東国で幕府のために死ぬことを選ぶ。ただそれだけの違いである。
 別に伊東は過激な攘夷を叫んだり倒幕を目論んでいたわけではない。かたや近藤が佐幕一辺倒だったかというと、それもまた違うだろう。
 しかし「異端は異教より憎し」とも言う。
 これは、キリスト教やイスラム教、また仏教もそうかも知れないが、別の宗教と抗争するよりも、同じ宗教内で違う宗派同士が戦うほうが凄惨な戦いになる場合が多い、という意味だ。そこには「近親憎悪」の感情が影響しているかもしれない。
 後年の伊東と近藤の抗争にそのような近親憎悪の感情があったようには見えないが、のちに両者は同じ尊王攘夷の信徒でありながら激しく衝突することになる。

 伊東大蔵は京都へ出発するにあたり、甲子太郎(かしたろう)と名を改めた。この年が甲子(かっし)のネズミ年だったことにちなんだ名前である。

 この伊東一派の人々は、のちに勝蔵と接点をもつことになる。
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