第53話 赤報隊と高松隊(一)
文字数 4,709文字
慶応四年(1868年)戊辰の年。正月(一月)四日。
猪之吉は甲州から京都へ戻って来た。
黒駒でお八重と会って将来を約束した猪之吉は、実に晴れ晴れとした気分で足取りも軽い。名前の通り猪のように街道を突っ走り、真冬の中山道を全速力で駆け抜けた。
とはいえ、あまり浮かれているわけにもいかない。
京都へ近づくにつれて
京都の白川家に到着すると昔の仲間たちとの再会を喜ぶのもつかの間、前日の夕方から鳥羽伏見で戦いが始まったことをその仲間から聞かされた。
そして猪之吉も甲州の事、さらには道中で見てきた戦さ仕度の軍勢の事を勝蔵に報告した。
「草津では幕府の騎馬隊を大勢見かけました」
「そうか。とうとう京の東でも
「いえ。少なくとも俺が見ていた時は、まだ戦さになってはいませんでした。なんだかよく分からねえんですが、どうやら幕府軍は草津から大津へ向かわず、どこか別のところへ行ってしまったようです」
「なんだ、つまらねえ。せっかく俺たちの出番が来たかと思ったのに。東へ向かう部隊には、ぜひ俺たちも加えてもらいてえもんだ。うまくすれば甲州まで行けるかもしれねえからな」
猪之吉が草津で見かけた幕府軍とは、江戸でフランス式調練を受けた騎兵部隊およそ五百人のことで、上方での戦争に備えて江戸から幕府が東海道を西上させた部隊である。
京都の南にある鳥羽伏見で戦いがはじまった直後に、この幕府軍が、ほぼ無警戒だった京都の東から攻め込んでいれば新政府はひとたまりもなかった、と有力な公家が手記に書き残している。「天皇陛下(明治天皇)にとっては大変御運がめでたかった」と。
当時、新政府側は鳥羽伏見の戦いにほぼ全兵力を投入しており、京都を守る兵は(
ところが、この五十人の大村藩兵のことを察知した幕府側の騎兵部隊が、
「すでに大津には薩長側の大軍が先鋒隊として入っているようだ」
と早とちりした。
そして「敵にこちらの存在を知られてはマズい。我々は大津には入らず、南の大和路へ
大坂から京都へ攻め上った幕府軍が南の鳥羽伏見ばかりに気を取られて四方から京都を攻めようとしなかった、という愚行については「幕末史一番の謎」と言うしかないが、このさっさと戦線を離脱した騎兵部隊は大坂の幕府軍と連携が取れていなかったのだろう。
先に紹介した有力な公家は手記の中で、
「もしこの部隊が京都に突入していたら、京都で日和見していた諸藩の兵も次々と幕府側に寝返って京都を取られていたであろう」
と書き残している。
好機逸すべからず。逃がした獲物はあまりにもでかい。
一方、猪之吉より先に甲州から京都へ戻っていた小沢一仙。
彼がかつて着手していた「琵琶湖運河計画」がおじゃんになって以降、彼の次なる夢は、
「甲州陥落を目指す朝廷軍の先駆けをつとめる」
ということであった。そのため彼の主筋にあたる甲州の武藤外記・藤太父子とも相談して京都へ戻って来たのだ。
京都へ戻った一仙は友人の
その建白書の概要は、
「甲州には兼武神主や武田浪人など尊王攘夷の道に励む決死の者が三百人以上おりますので攘夷の先鋒をお命じくだされば決死の覚悟で実行いたします。ぜひ王政復古の実現に向けてお役に立ちたいと思いますので、よろしくお取り計らい下さい」
といったような内容である。この中にある兼武神主とは例えば武藤父子のことを指し、武田浪人とは武田信玄につらなる旧武田家遺臣の縁者たちのことで反徳川的な傾向が強い浪士たちのことを指す。
これに対し年明けの正月元旦、高松保実は一仙に対して、
「貴殿の建白書は朝廷によって採用されたので、これからもご奉公に励むように」
と回答した。
一仙の夢は実現に向かって第一歩を踏み出したのである。
このあと一仙と岡谷は甲州遠征へ向かう部隊の編成にとりかかった。
遠征するにあたっては、とにかく高松家の後ろ盾がないとどうにもならない。しかしながら高松保実は五十一歳という年齢もあり、本人が出馬することには否定的だった。そこで彼の三男の
年齢で言うと小沢一仙三十九歳、岡谷繁実三十四歳、高松実村二十七歳。
宮大工あがりの一仙が、元家老の岡谷や公家の御曹司である実村を引っ張っていくかたちになったのは、そういった年齢的な問題もあったであろう。
この隊は後年「高松隊」と呼ばれることになるのだが、隊の結成にはもう少し時間を要することになる。
同じ頃、元御陵衛士の鈴木三樹三郎は山科
鈴木三樹三郎は以前「三木荒次郎・三木三郎・三樹三郎」などと名乗っていた伊東甲子太郎の実弟で、この頃には実家の姓に戻して鈴木三樹三郎と名乗るようになっていた。以後、彼はずっとこの名前を名乗りつづけ、現在ではこれが彼の本名として一般に認知されている。
山科能登之助は「
そして綾小路俊実は、大原
その綾小路がこの時、過激派公家の本領を発揮した。謹慎処分の身でありながら、
(ここで一発、自分も挙兵してデカい仕事をやってやろう)
などと分不相応なくわだてを思いついたのである。
というのは、この先月、同じ過激派公家の
それで綾小路は山科を介して三樹三郎に挙兵の相談をもちかけたのだ。
「我々は文物のことには詳しいが、戦さのことにはまったく暗い。それゆえ、挙兵するための同志をお主に集めてもらいたい」
兄の伊東甲子太郎と同じく尊王攘夷の念が強い三樹三郎は、もちろんこのお公家様からの頼みを二つ返事で引き受けた。
実はこれが「赤報隊」の発端となるのである。
現在、赤報隊といえば一般的に、
「相楽総三の赤報隊」「相楽総三が作った赤報隊」
と思われがちだが、その発端はこの綾小路の思いつきから始まったものであり、実際にその
ところがこの日の夕方、鳥羽で戦いが始まったとの連絡が入り、三樹三郎は急いで伏見の薩摩藩邸へと戻った。
そして三樹三郎たち元御陵衛士の隊士は中村半次郎に従って伏見の戦いに参戦することになった。ただし、このとき加納道之助と清原清の二人は江戸へ偵察(薩摩藩邸焼き討ち事件の調査)の任務に出かけていたため不在だった。
伏見の戦いは伏見奉行所をめぐっての攻防戦である。
伏見奉行所には三樹三郎たち元御陵衛士にとって不倶戴天の敵、新選組もいる。ただし一番の仇敵である近藤勇はこの前の襲撃で肩を撃ち抜いて戦線離脱に追い込んでおり、このとき新選組の指揮をとっているのは副長の土方歳三だ。
なんにせよ、三樹三郎や篠原たちは、
「油小路で殺された伊東、藤堂、服部、毛内の
とばかりに伏見で新選組や会津藩を相手に奮戦し、
その甲斐あってか、土方に「もう刀の時代は終わった」と言わしめるほどの損害を与えて彼らを撃退した。そして新政府軍は伏見奉行所を焼き払い、幕府軍を撤退に追い込んだ。
元御陵衛士の隊士たちにとっては新選組との直接対決に勝利し、油小路の敵討ちを成し遂げたかたちとなったが、この伏見での勝利は新政府軍全体にとっても大きな勝利となった。
翌四日。三樹三郎たちは鳥羽方面へ回って幕府軍の側面を突いた。
この鳥羽方面の戦いは激戦となり、三樹三郎は左手の手のひらに貫通銃創の傷を受け、富山弥兵衛は味方から背中を撃たれて負傷した。それで二人は治療のために今出川の薩摩藩邸へと移った。この激戦により中村半次郎の部隊は四十人のうち二十八人が戦死したという。ただし元御陵衛士の隊士から戦死者は出なかった。
翌五日。薩摩藩邸で療養していた三樹三郎のところへ山科能登之助がやって来て、先日の「綾小路の挙兵」について再び協力を求めた。
山科が岩倉具視に相談したところ「是非やれ」との返事をもらったので挙兵を実行に移したい、という話だった。
療養中の身である三樹三郎としては多少のためらいはあったが、とにかく承知して元御陵衛士の仲間たちを戦線から呼び戻すことにした。
そして翌六日。この綾小路の挙兵計画について三樹三郎が西郷吉之助に相談したところ、西郷は「それは良か考えでごわす」と快諾し、小銃百丁と軍資金百両を三樹三郎に貸し与えた。
という事はつまり、この「赤報隊」の計画は少なくとも、まだ鳥羽伏見の結果が出ていない段階においては、岩倉も西郷も前向きにとらえていたという事だ。
事実、二日前には京都の東にある大津や草津で「あわや幕府軍から急襲される」といった危険な場面もあったし、京都の東は今でも手薄なのだ。そこで味方が挙兵して防御壁を築いてくれるのであれば、岩倉や西郷が反対するはずがない。
こうして三樹三郎たち元御陵衛士が中心となって綾小路を首領とした一隊を結成し、そこへ山科が同じ柳ノ図子党の一員である
彼らが旗あげ先として選んだのは、近江の松尾山にある金剛輪寺だった。ここは
京都の東にある近江を平定するにあたっては何よりもまず、徳川譜代の名門で近江の要衝にある彦根藩を押さえることが肝要である。
そのため彼らは松尾山で挙兵することによって彦根藩へのにらみを
彼らはさっそく京都を出発して東へ向かった。
そしてこの同じ日に、山崎の藤堂軍が寝返るなどして鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利、ということで一応の結果が出た。
しかし大坂城から慶喜が逃亡して江戸へ向かうのはこの日の夜のことで、この段階ではまだ、そう簡単に大坂城を落とせるとは新政府側も思ってはいない。
とはいうものの「鳥羽伏見の戦い」が従来の社会秩序を一変させる革命的な大事件であったことは、「関ヶ原の戦い」がそうであったように、誰もが認めざるをえないところだろう。
関ヶ原は徳川の世が始まったことを人々に知らしめ、鳥羽伏見は徳川の世が瓦解したことを人々に知らしめた。
奇しくも関ヶ原では島津と毛利が徳川に敗れ、鳥羽伏見では島津と毛利が徳川に雪辱を果たした。
歴史の皮肉なめぐり合わせである。