第41話 千恵の夜話(2)

文字数 2,307文字


「じゃあ、旅行には行けなかったんですか?」
「――中国だけは行きましたよ」千恵が答えるのに、少し時間がかかった。

「万里の長城をどうしても見たかったから、大学時代の友人を誘って三人で行ってきました。あれは本当に楽しかった」

 五十歳の頃だった。旅行会社のパッケージツアーであったが、千恵にとっては人生最大の冒険だったという。世界史を学んでいながら海外に出たことがなかった彼女にとって、道を行き交う人の発する言葉が理解できないだけで嬉しかった。
 ツアー会社が連れて行くような、日本語の通じる店だけでは不満で、自分で勝手に街中の店に入って会話を試みたのが楽しかったらしい。

 帰路の機内では、友人たちとこれから継続して海外旅行に行くことを約束した。そして旅行費用を自力で稼ぐことを決め、家に帰ったら義父母と夫に仕事に出ることを相談することにした。

「どんな仕事でもいいと思っていました。そうしたら友人の伝手で文化財調査のアルバイトを紹介してもらったんです。発掘現場で土を掘る仕事でした。三日間ほどやって、一万五千円くらい貰ったと思います。厳しいですがやりがいのある仕事でした」

 しかし、その三日が結婚後に千恵が働いた総日数となった。次の発掘アルバイトの募集を待っているうちに義母が体調を崩して入院し、以後は義母、義父、そして夫の介護をする日々が続くこととなったのだ。

「それ以来、外に出て働くことはしていません。夫が亡くなってからは気力が無くなってしまったので、ぼんやりと生きていましたよ」

 そんな状況の千恵が、最後に自分の気持ちを奮い立たせてみようと思ったのは、孫から中学校の勉強が面白くないと愚痴られた時だった。勉強はやる気があるうちがチャンス、と自身の経験から思っていた千恵は、息子夫婦の家に通って勉強を教えようとした。

 千恵が最初にやったのは、書店に行って中学校の主要教科の参考書をまとめて買うことだった。それから数日をかけて参考書を読んだ。社会科は昔取った杵柄で、あらためて知識を叩き込む必要はなかった。国語も英語も何とかなりそうだった。

 問題は理科だった。情報としては何とか頭に入るが、理屈が理解できなかったので、問題が解けない。千恵は久しぶりに徹夜というものを経験した。

 そんな彼女の取り組みは、孫と対する前にあっさりと終焉を迎える。息子夫婦からは余計なことをするなと断られたという。

「もうお婆ちゃんは家に籠って犬と一緒に暮らしていればいい、と言われた気がしました。こうなると、私の人生は後悔ばかりなのです。やり残しが沢山あります」

 千恵が語ってくれた半生は、碧にとってはどこかで聞いたことがあるような話だった。本人には申し訳ないが、類型的だった。結婚を契機に社会と断絶。家庭での夫の不在。介護での孤独。息子夫婦の不理解。同情できる内容なのだが、今一つ心が揺さぶられなかった。

 よくある話だったということもあるが、隣の布団で横臥している千恵の物語として現実味が湧かなかった。テレビドラマを観ているような気分になってしまっていた。

 考えてみれば、孫に勉強を教えるために教材を買い込んできて自習する祖母というキャラクターは世間にはほとんど存在しないだろう。だがフィクションとしてはありそうである。
 千恵の話し方が上手ということもあって、碧は映画のストーリーを紹介されているような気分になっていた。

 そんな碧に薄々感じられたのは、千恵が宇宙へと旅立とうとしていることの動機が今の話に隠されているのだろう、ということだった。やりたいことを諦めさせられた人生を歩んできた千恵にとって、目の前にある「やれそうなこと」の可能性に蓋をすることなど到底できないのかも知れない。

「私の人生にはカフェラテちゃんしか残されていなかった。どこにでもいるような雑種の犬が、こんな新しいチャレンジをくれるなんて、凄いと思いませんか」
 千恵は大きく息を吸うと、「私、頑張りますよ」と暗がりで叫んだ。

 チャレンジ――。千恵の言葉に引っ掛かりを覚えた碧は、カーテンの文様を影絵のように映し出している障子戸を眺めながら、彼女の言葉を反芻(はんすう)してみた。

 どこにでもいるような雑種犬が血を宇宙に誘っているのではない。カフェラテは雨中生物なのだ。どうして事ここに及んでカフェラテを普通の犬の立場に落とし込むのか、碧には千恵の心情が分からない。
 それに、新しいチャレンジではないよなあ。どうしても碧には、精神体となることを前向きな冒険に(とら)えることができなかった。

 でも、そう考えないと千恵の中で整理がつかないのかも。碧は胸が少し熱くなった。

「精神体になったら、宇宙に出てしまう前に世界の遺跡を巡ってみたらどうですか」
 碧の問いに返事はなかった。千恵の目は閉じられている。

 碧は寝返りを打って身体を窓の方に向けると、ぼんやりと見える庭を眺めた。ひょっとしたらカフェラテが芝生の上に座っているかなと思ったが、その気配はなかった。

 千恵が精神体となって宇宙へ行くと言い出した時、碧には彼女の行動が家族のことを(かえり)みない我儘(わがまま)なものに思えた。その考えは今でも変わらない。
 だけど知りたい、経験したいという感情を押し殺して生きてきた千恵が、今回は自分に正直になって願望を成就させようとしているのだと知ると、その我儘は許容されてもいいのではないか、という気にもなってくるのだった。

 ここに至ってようやく、碧の中に千恵に「いってらっしゃい」と言える気持ちが醸成されてきた。カフェラテが「千恵と話をしろ」と勧めたのは、碧がこういう気持ちになることを見越してのことだったのか、と感服した。
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