第39話 作戦会議の夜(3)

文字数 1,779文字


 手術が成功すれば、千恵はかなりの年月、宇宙の旅を続けることになる。その間に到達することができる星がいくつもあるとは思えず、大半を何もない虚無な空間で過ごすのだ。
 (あおい)が短期間で学んだ宇宙とは、僅かな発見と遠大な退屈の世界だった。千恵はそれに耐えられるのか。

 物事には落としどころという終着点がある。終着点があるから安心する。碧にとっては先日の二十キロジョギングぐらいが後先考えない冒険の限界なのかも知れなかった。

 カフェラテの中の精神体はそれができるのだ。彼は情報収集を目的化して生きている。知ることが生きがいなのだ。圧倒的に長い何もない空間移動の中、遭遇できるかどうかも分からない未知の出会いだけを期待して生きていくことができるだけの命の長さがある。

 私だったら数か月もしないうちに()んでしまうだろう。最初のうちは、火星なり、木星なり、土星なりを近くで見ることができて感動するかもしれないが、そのうち絶対に飽きる。そして後悔するだろう。

 それでも碧は、千恵が自らそういう旅路を選択したことを批判的に見ているわけではなかった。千恵は碧と違って先の見えない退屈の旅に出たいと願っているのだから。

 やはり心に引っ掛かっているのは、何も知らずに残される家族のことだろう。どうしても義理を欠いた行為に思えて仕方がないのであった。
 本人は宇宙へと旅立ち、家族は残された身体の介護をしていく。ひょっとしたら洋介らはもっと千恵と同じ時を過ごしたいと思っているのかも知れない。その思いを無視していいものか。

 碧は頭の中が混乱してきた。
「千恵は、地球を出てこれまで見たことがない天体を見たいと言っていた。その探求心を尊重した結果だ。碧はこれまで彼女の知識欲にあまり関わることがなかったようなので、一度話をしてみたらどうだ」
「どういうこと?」
 碧はカフェラテの言葉に小首を傾げた。

「君の思考が少しはすっきりするかも知れない」
「それって、私が千恵さんのことをあまり知らないと言いたいわけ?」
 カフェラテは頷いて見せた。碧はカフェラテにしては珍しい迂遠(うえん)な言い方をしたことが少し引っ掛かった。カフェラテらしくなかった。

 何も言わぬままカフェラテを見ていると。また碧の耳元で蚊の羽音が聞こえた。
「蚊に刺されるから、家に戻るわよ」
 碧はそう言うと歩き出す。カフェラテは小走りで碧を追い越すと、軽やかな動きで犬小屋の屋根に飛び乗った。四肢を突っ張って立つ様は、まるで碧が家に戻るのに立ちはだかるかのように見えた。

「以前、千恵の質問に夕飯を食べていないと答えたことがあったな」
 碧はカフェラテの唐突な問いかけの意味が分からず、眉を(ひそ)めた。

「食事を取っていないにもかかわらず、食べたと答えたことがあっただろう」
「そんなことを言ったことがあるかも知れない」
 だから何なのだと言い返そうとしたが、碧はあえて黙って次の言葉を待った。

「千恵の分離処理のこと、碧は洋介たちに虚偽の説明をするつもりだろう」
「当り前じゃないの」
 千恵の精神は肉体と分離され、宇宙に去りましたなどと説明できるわけがない。

「雅也に対しても、虚偽の説明をしたことがあった。雅也だけではないな。私のことを周囲に隠匿(いんとく)して正確な情報は開示していない」
「だから、そんなこと言えるわけがないじゃない」

 するとカフェラテは「地球人は事実を隠蔽(いんぺい)し、捏造して伝達することを頻繁にやるようだが、それは相手のためではなく、自分の都合が良いからなのだな」と言い出した。

 そんなことはない。世の中には伝えなくてもいいことが存在する。伝えることがお互いに有益にならないことがあるのだ。

 碧がそう反論すると、カフェラテは首を傾げた。
「正確な情報を伝えないことよりも有益なことがあるのか」
 碧は「きっとあるでしょうよ」と答えたきり黙った。何かを言いたかったが、それが言語化できなかった。

「私の頭の中から、後で勝手に私の反論を読み取っていいわよ」
 そう言い返すと、碧はカフェラテを置いてずんずんと歩き出した。
 結局、カフェラテは何をしたくて話をするために庭に誘ったのだろうか。碧は小さな不審を抱いた。

 碧は広縁に上がると、まだ犬小屋の上に立っているカフェラテを見た。子犬は碧に尻を向けたまま動かない。碧はもう一度庭に降りると、カフェラテを抱きかかえて家に戻った。
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