第62話 9年を経て知ること(2)

文字数 2,041文字

 カフェラテは首を伸ばして篠崎邸を見ると、尻をもぞもぞと動かした。

「降りるの?」
 (あおい)が腕の力を少し緩めたところ、カフェラテは碧の胸を蹴って前方にジャンプした。そしてブロック塀の上に腹から着地したと思ったら、そのまま庭に落ちた。ギャン、という鳴き声がした。

「カフェラテ」
 碧は慌ててブロック塀から身を乗り出した。カフェラテは仰向けに庭に落ちたらしく、頭から背中に数枚の落ち葉を付けた状態で立ち上がった。

「大丈夫なの」
「大丈夫だ」
 カフェラテは長い耳を上下に揺らすと、ゆっくりと庭を歩き出した。

「ちょっと、どこへ行くのよ」
「碧は入ってこないのか?」

 カフェラテは庭の中央付近まで進み、探し物でもするようにキョロキョロと左右に首を振っている。碧にはまるで無くなった犬小屋を探しているように見えた。

「こっちに戻ってきてよ。今はあんたの家じゃないのよ」
「ここは私の家ではない。所有者は千恵だろう」

 碧にはカフェラテの屁理屈を笑う余裕はなかった。今はあの犬を連れださなければならなかった。碧は舌打ちをすると、すぐ近くの通用口から入ろうとしたが、思い返して反対側の玄関に回ることにした。
 面識のない家人と出くわした時に「裏から入りました」では無用なトラブルを生む。

 おかげで碧は数年ぶりに走った。

 篠崎邸の東側にある玄関アプローチの隣のガレージには、クリーム色の普通自動車が停まっていた。家人が在宅している可能性が高くなり、碧は少しだけ安堵した。

 その安堵感は、表札を見た途端、緊張感に上塗りされた。そこには「篠崎洋介」の名が記されていた。

 息を整えてからインターフォンを押すと、数秒の間が開いて「どちら様ですか」と女性の声が聞こえた。

「すみません。犬がお宅の庭に入ってしまったので、連れて帰りたいのです」
「分かりました」

 今の声は枝里子だろうか。碧は自分の名を告げなかったことについて、これから相手からどのように思われるのかが気になってきた。

 篠崎家の人は、十年前に二、三回会っただけの私のことを覚えているだろうか。忘れているのなら、さっさとカフェラテを回収して立ち去ろう。
 覚えていたのなら、こちらから「お久しぶりです」と挨拶すべきなのだろうか。
 最悪なのは水原碧であることを隠して行動している途中で気づかれることだった。

 こんなことを毎度悩んでしまう自分の性格が恨めしかった。

 果たして、玄関から出てきた枝里子は、碧の顔を見た瞬間、「あっ」と小さな声を上げた。

「あの、義母のお友達だった水原さんですよね」
「御無沙汰しています」碧は頭を下げた。

 枝里子の正確な年齢は知らないが、そろそろ五十代になるのだろうか。碧の記憶に残る女性よりは、ぼっちゃりとした体形になっていた。
 そして、以前はボリュームがあった頭髪が、頭皮に貼り付いたように薄くなっているのが目についた。

 枝里子は穏やかな笑顔を浮かべ、玄関から出てきた。
「どうしたんですか」
「あの、カフェラテが庭に入ってしまいまして」

 碧は枝里子が自分のことをどこまで知っているのかが分からないまま、早口で事情を説明した。

「じゃあ、庭に迷い込んだのは、義母が飼っていた犬なんですね」
「そうです。カフェラテです」
「じゃあ、懐かしがったのかも知れませんね」
 枝里子は碧を先導するように庭に歩き出した。

 カフェラテはすぐに見つかった。家の中に入ろうというつもりなのか、一階の庭に面した窓に顔を押し付けてもぞもぞと口を動かしていたのだ。碧は後ろからカフェラテを抱き抱えると、「何をするんだ」と言いかけるカフェラテの口に自分の口を押し当て、枝里子に聞かれないよう小声で「静かにしていて」と言った。

 碧はすぐにでも辞去したかったが、枝里子から家に上がっていくように言われると断れなかった。

「今は子どもたちも家を出てしまったので、主人と二人でこの家に暮らしています」

 客間に通された碧は、座卓を挟んで枝里子と向かい合った。カフェラテは膝の上でおとなしくしている。部屋の奥に置かれたストーブが碧の方に向けられていて、その熱が顔に直撃してくるのには困惑した。

「いつからこちらにお住まいになっているのですか」
「六年か七年かしら」

 枝里子は斜め上を見て、記憶を辿(たど)るようにして言った。「それまで住んでいたマンションの改築の話が出て、仮住まいが必要になったんです。それだったら、いっそのことこの家に戻ろうということになりました」

 戻るということは、もともとはこの家で千恵さんと同居していた時期があったのだろうか、と碧は思った。

「それで、水原さんもこの近くにお住いのはずだから、いつか犬の散歩しているところで出会うことができるかも知れないね、と娘と話をしていたんです」

「そうですか。私は裏手のマンションに住んでいたんですが、九年程前に転勤になりまして……」

 碧は目の前に出された茶を少しだけ口に含む。彼女から枝里子に向ける話題はほぼ皆無に等しく、早くも居心地が悪くなっていた。
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