第21話 千恵の頼みごと(2)

文字数 3,038文字


 金曜日の午前十時過ぎ。八月締めの請求伝票と燃料使用量が合わない原因を調べるために営業部に足を運んだ(あおい)は、外出しようとしていた雅也から「明日は昼の十二時前、十一時半くらいに迎えに行くよ。まず昼ご飯を食べよう」と声を掛けられた。

「あっ」碧は小さく声を上げた。雅也との約束を忘れていたわけではないが、千恵のことをどうするのかを決めていなかったため、スケジュールを調整することを怠っていた。

 席を立って歩き出していた雅也は、碧の声を聞いて振り返った。
「どうかした?」
「――大丈夫。何でもない」

 雅也は不信を(にじ)ませた表情を浮かべ、それを碧に見せつけながら事務室を出て行った。碧はその後姿を見ながら、決断を急がされていることへの焦燥感が込み上げてきて、胃の底が冷えてきた。

 伝票のずれについては、碧と目を合わせようともしない営業部の係長から「部員にメールをしておくからそれでいいだろ」とその場での調査を断られた。
 そっちは忙しいのかも知れないが、こっちだって暇ではない。そんな反発を抱きつつも引き下がらざるを得なかった碧は、すぐに席に戻る気にならず、トイレの個室に(こも)った。

 午前十時までに千恵を迎えに行って、家に送り届けてから雅也と出掛ける。決して無理なスケジュールではない。でもそれ以前に、家族の意向に反して千恵を自宅に連れ帰ってもいいものなのか、碧は判断しかねていた。

 とにかく千恵と連絡を取るべきだ。

 碧は自分の机に戻ると、トートバッグからスマホを取って廊下に出た。トイレに向かって歩きながら、昨日から何回もかけている千恵の番号にリダイヤルする。「出てください」と祈りながら廊下を歩いたが、トイレに着く前に留守番電話サービスにつながってしまった。
 がっかりした碧は、スマホを持つ手をだらんと下ろした。

 入院患者は午前中に検査があって忙しい、ということに気づいた碧は、午後から数回連絡を試みたが、千恵が電話に出ることは無かった。

「何かあったの?」
 席に着くと、愛未(まなみ)が小声で話しかけてきた。

「別に、ちょっと」
 碧は返事の言葉に困った。余計な心配をさせまいと思って無理に笑顔を作ったが、逆に不審を抱かれたようだ。何も言わないが、愛未の眼は疑心に満ちているように見えた。

 碧は思い切って愛未に相談することにした。

「実は、知り合いの人が近いうちに手術をするんだけど……」碧は、カフェラテに関することを省いて千恵のことを愛未に話した。

 愛未の答えは明快だった。

「本人の気持ちは分かるけど、御家族の意向を無視することはできないよ。碧がすべきことは本人を説得することでしょ」

「そうなの?」

 碧は自分が想定していなかった答えに唖然とした。「それでは(だま)すようなものじゃない」

 だが愛未は「騙すという話ではなくて、家族の心配を考えてよ」と言った。手術までの期間、施設に入るということは、何かあったときのためのバックアップ体制が目的であるはずだということだった。

「実家に一人きりで過ごさせるわけにはいかないくらい、その人の深刻な状態なんだよ」愛未は決めつけるように言った。

「一人にさせるのが不安なら、家族の誰かが一緒に住んであげればいいじゃない。千恵さんは不安なんだと思うよ。だから住み慣れた自宅に帰りたいのよ」

 愛未は「もしかしたら、そこが話し合いのしどころ」と言って碧の肩をとんとん叩いた。
「碧はその人の気持ちに寄り添い過ぎている。常識的に考えれば、家族の言うとおりにすべきだよ。これから先ずっと施設に入ってくれと言っているわけじゃない。手術が済めば、また家に戻ることができるのだから」

 碧はすっきりするどころか、ますます悩んだ。

 彼女には千恵を説得できる自信がなかった。誰もが言いそうな理屈を端から並べたところで、それで納得するような千恵ではない。
 だからと言って、洋介らに「千恵と一緒に住むのはどうか」などと提案できるのかというと、とても無理だった。

 その夜、碧はスーパーで買ってきた豆板醤(とうばんじゃん)を大量投入した激辛の麻婆豆腐を作った。イライラした時には辛い料理を食べてビールを飲むことが、彼女のストレス発散法だった。

「明日はどうすることに決めたのか?」カフェラテが聞いた。彼の皿には、スーパーで買った少し贅沢な値段のドッグフードが盛ってあった。

「とりあえず、病院には行く」顔を紅潮させた碧はそう答えると、グラスのビールを喉に流し込んだ。「約束の時間のちょっと前に行って、千恵さんから呼ばれましたと言うつもり。そこから先は家族の話し合いに任せるわ」

「私は連れて行ってもらえるのか」
「駐車場まではいいわよ」

「そこで千恵には会えるのか」
「どうなるかな」

 碧はおそらく会うことができないだろうな、と思っていた。カフェラテを自由に待たせておくわけにはいかず、自分の車のところまで千恵を誘導する方法も浮かばなかった。

「碧にお願いだ。できるだけ私を千恵に接触させてもらいたい」
 カフェラテは碧をじっと見つめていた。

「千恵さんに接触しても、病気については情報を取ることはできないわよ」
「そういうことではなく、千恵の現在の症状を把握したいだけだ」

 カフェラテは、なぜそうしたいのかを言おうとはしなかった。

「まあ、努力はしてみるわね」

 碧はグラスのビールをすべて飲み干すと立ち上がった。「じゃあ、今夜はシャワーだけではなくてシャンプーをして、綺麗になろうか」

「了解だ」カフェラテは食べ終わった皿を咥えると、キッチンに歩いて行った。白い尾が軽快に振れているのを見て、碧はいじらしく感じた。

 やっぱり千恵の望むとおりに行動したほうがいいんだろうか。一度は家族間の話し合いに委ねることにしたものの、碧の中ではまた議論が蒸し返された。

 カフェラテはそれ以降、翌日のことを一切口にしなかった。碧に気を(つか)ったのか、単にその必要が無かったのかは分からなかったが、碧にはありがたかった。
 彼は午後十一時過ぎに「それでは」と言って先に寝室に入ってしまった。

 一方の碧は、日付が変わる時間帯になっても一向に眠気がやって来なかった。真っ暗な寝室のベッドに身を横たえてみたものの、眠くなるどころか却って頭が冴えてくる感じがした。

 ベッドのすぐ横では、カフェラテがタオルを敷いた(とう)の籠の中で眠っている。窓の外からはどこかの部屋から流れ出てくる音楽に混じって、人の話し声がかすかに聞こえていた。

 碧はあきらめて身体を起こした。カフェラテを起こさないようにベッドを降り、キッチンに行って水を飲む。カウンターの置き時計を見ると、二時になろうとしていた。

「睡眠を取らなくていいのか」
 いつの間にかカフェラテがキッチンに来ていた。

 碧は返事をする気持ちになれず、グラスに残る水を飲み干した。

「ねえ、あんたは眠るの?」碧は聞いた。

「この犬の生理現象などから判断すれば、睡眠とは有意な精神活動が停止する状態のことを言うようだね。私は眠らないよ。精神体である私が思考を止めることは無いのだ」

「私たちは眠らないと死んでしまうのに、あんたは違うのね」
「死ぬというのは生命維持活動の停止の意味だね。私だって維持機能が劣化すれば、活動停止するさ」

 カフェラテはダイニングテーブルの椅子に飛び乗ると、テーブルに前足を掛けた。

「睡眠を取らないのであれば、少し私の話をしようか」

「聞かせて頂戴」
 碧も椅子に座り、テーブルに頬杖をついた。

 カフェラテは碧の目を見ながら語り出した。
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