第65話 私とカフェラテ(1)

文字数 2,447文字


 (あおい)は昼の十二時近くに篠崎邸を辞去した。昼過ぎになれば洋介が帰宅するので一緒に食事はどうかと枝里子が誘ってきたが、それが社交辞令に過ぎないことはお互いに了解済みしていて、碧が丁寧に断ると枝里子もそれ以上は誘わなかった。

 千恵についての話題はとっくに枯渇していた。碧はマンションに停めたままの車がそろそろ心配になっていた。

 マンション出発した碧はそのまま自宅に戻る気にならず、何となく馴染みの景色を見ながら車を走らせた。

「カフェラテ」
 後部座席のカフェラテに声を掛けるが返事はない。

「ねえ、起きているでしょう。返事をしてよ、カフェラテ」

 枝里子の話を聞いてから、碧は無性にカフェラテと話がしたかった。自分の思いをぶつけたい欲求に、頭のてっぺんから足の指先までが熱くなっている感覚に捉われていた。

 どこかに腰を据えようと考えた碧の目に飛び込んできたのは海浜公園の看板だった。
 碧は最初に目についたコンビニに寄ってホットコーヒーとビスケット、そして水のペットボトルを買うと、車の向きを変えて公園を目指した。

 公園の駐車場に着くと、碧は後部座席で目を閉じて伏せているカフェラテを抱いて遊歩道を歩いた。風が少し出てきたので、碧はマフラーを首に一回りさせ、余りでカフェラテを包んでやった。

 人工の浜辺まで歩いてくると、かつて雅也と座り、カフェラテと語り合ったベンチが撤去されていることに気づいた。
 辺りを見回すと、砂地の一角にテトラポットの形をしたプラスチック製のオブジェがあったので、碧は砂浜の中に入ってそれに腰を下ろした。
 このオブジェは子ども向けの遊具なのかも知れなかったが、冬ということもあって碧たち以外に人影はなかった。

 碧はコーヒーを一口飲んだ。喉から食道を熱いものが流れ落ちるのを感じてから、カフェラテを白い砂の上に下ろす。

 カフェラテは首を回して辺りを見渡すと、砂に腹を付けて寝そべった。一度開けられた目は、また閉じてしまっている。

「おやつがあるよ」
 碧はビスケットの袋を破き、中から出した一枚を鼻先に突き出す。だがカフェラテは臭いを嗅ごうともせず、目を閉じたままそっぽを向いた。
 専用のキャップを付けたペットボトルで水を飲ませようとしたが、こちらにも興味を示さなかった。

「カフェラテ、水くらい飲みなよ」
 カフェラテは、今度は目を開けた。その背中を(さす)りながら、碧はやや強引に水を飲ませる。犬はキャップに付属する皿から二口ほど水を飲むと、前足の上に頭を載せて目を閉じた。

「カフェラテ、しっかりしてよ。話があるんだよ」
 碧は思い切ってカフェラテの背中を叩いた。犬はびくっと全身を震わせ、やがて身体を起こすと、尻を地面に着けて座った。

 カフェラテが話を聞く態勢になったとは思えないが、碧は本題に入ることにした。

「あんたも千恵さんの家で聞いていたよね。千恵さんは神経膠腫(しんけいこうしゅ)じゃなかったという話」

 少しだけ反応を待ったが、カフェラテからは何の反応もない。碧は気持ちが高ぶってしまい、右足で砂を何度も踏んだ。
 落ち着こう。そう自分に言い聞かせると彼女は唇を噛み締め、ふんと鼻息を吹いてから肩の力を抜いた。

「今となれば、私は千恵さんが何の病気だったのかはどうでもいいと思っている。だから、あれが嘘なのか間違いなのか勘違いなのか、そんなことで文句は言わない」

 碧は一語一語を切るように、努めて丁寧に口から吐き出した。

「でも、精神分離の必要があったのか、というところを分からないままにして、この物語を終えることはできない」

 カフェラテの耳がわずかに上下した。だが次の瞬間、犬の目線は碧から外れ、どこか遠くを見つめている。その目線を追うように碧は後ろを振り返ったが、景色に変化を見つけることはできなかった。

「分離した精神体が生命活動を維持できなくなって消失した結果が脳出血だったの?」

 カフェラテは碧の質問に答えなかった。一度、口の周りを舌でゆっくり舐めた。

「それとも肉体の方が脳出血で亡くなったのが先だったの?」

 カフェラテは碧の肩越しに遠くの景色を見つめたままだった。碧はしばらく待ったが、カフェラテの口からは言葉は発せられなかった。

「私がやったことには必要があった、やったことには意味があった、と言いなさいよ」

 碧は声を張り上げたが、カフェラテは無反応だった。碧はため息をついた。私は誰に向かって文句を言っているのか、と思った。まるで自問自答だ。

 碧は眼を閉じると、波の音だけを聞くように意識を集中し、ゆっくりと呼吸した。一回、二回、三回……。やがて眼を開けた。

「結局、あんたは枝里子さんの病気を千恵さんの病気と勘違いしたのかな。私の想像だけど、あんたが情報を取ったのは洋介さんの頭の中でしょう。洋介さんの中にあった枝里子さんの病気についての記憶を、あんたは取り違えたんじゃないの。それを千恵さんに伝えたから、彼女も自分が神経膠腫だと思い込んでしまった」

 想像が一つの結論に集約されてくると、それに沿って辻褄が合ってきた。

「おそらく洋介さんは千恵さんを心配しながらも、同時に枝里子さんのことも心配して、二つのことが頭の中でぐるぐる回っていたんだと思う。あんたは千恵さんの身体の不具合と枝里子さんの病気に関する情報とを結びつけてしまったんだよ」

 千恵の通夜の夜、カフェラテは犬の意識から想定を超えた干渉があるのだと言っていた。そして浸蝕が続けば思考機能に支障が出てくるかも知れない、とも言っていた。
 もしかしたら千恵の病気を調べていた時点で既に支障が起きていて、情報の混同が起きたのかも知れなかった。

「私の推理は合っている?」

 訊いてはみたけれど、碧は答え合わせを期待していなかった。自分の推理が的を射ているような気がしていて、もはや別の真実を聞かされなくてもいい、とすら思った。

 碧はコーヒーを飲み干すと、空のカップを砂浜に放り投げた。

 カップは風に押されて砂の上を転がり、ペットボトルに当たって止まった。
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