第35話 決断(1)

文字数 2,701文字

 木曜日。カフェラテが千恵を宇宙に誘ってから五日が過ぎていた。(あおい)はこの日、日帰り出張で二回目の研修を受け、最寄りの駅まで戻ってきたのは午後十一時近かった。

 今日の研修では午後から直営工場の見学だった。碧は工場長の案内で場内を歩きながら、小学校の社会科見学を思い出していた。会社としては自社の生産ラインぐらいはきちんと見て知っておけということなのだろうが、技術主任から語られる内容は、碧には難解なものだった。

 日曜日の深夜、泊まりたいとせがんだ雅也をやっとのことで帰した碧は、夜半過ぎまでかけて前回の研修レポートを作成した。翌日、痛む足を引き()って出勤し、課長にレポートを提出したときにはさすがにやり遂げたと思いが身体を突き抜け、誰かに()めてほしくてたまらなかった。

 その気持ちが(へこ)まされるのに時間はかからなかった。頬を緩め、白い歯を見せながら席に戻った碧は、愛未から人事部ではレポート内容なんて読んでいないと聞かされて憮然とした。

「人事部にいる人が読んだって、レポートの中身なんて分からないよ。肝心なことは、それなりの文字数で埋めて、格好良い体裁にしたものを提出することだけ」
 愛未のあっけらかんとした言い方に、碧はちょっとだけ不快感を覚えたものの、そういうこともあるのだろうな、とあっさり納得した。不満を頭の中に置いておくことが邪魔に思えた。

 いずれ今日の研修についても来週の半ばまでにはレポートを提出しなければならない。
 愛未はああ言ったが、碧は手抜きをする気にはならなかった。

 閑散とした駅のホームを抜けた碧は、駐輪場から自転車を出すとマンションに向けてペダルを踏んだ。今週は住宅街を真っすぐ抜ける道を避け、東に大きく迂回するコースを選んでいた。自分でも理由がよく分からないのだが、千恵やカフェラテと会いたくない気持ちが碧の中に強く生まれた結果だった。

 迂回することで駅の往復時間が四、五分程長くかかるようになったが、途中にコンビニを見つけたので、ちょっとした買い物ができるようになった。今夜も碧は食べそびれた夕飯の代わりにパスタサラダと缶ビールを買った。

 マンションに帰ると、碧は蒸し暑い室温を下げるために南側の窓を開けた。開けた窓から篠崎邸の屋根が見えるはずだが、碧は視線を下げて見ないようにする。それから彼女はブラウスとパンツを脱ぎ捨て、下着姿のままキッチンでサラダを食べた。
 ビールは勢いで買っただけだったので、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。十分もかからずに夜食を済ませると、シャワーを浴びた。

 千恵が自宅に戻った土曜日の夜以来、カフェラテはおろか千恵からも何の連絡もなかった。明後日には千恵は再入院し、そしてその三日後に手術をする。カフェラテの誘いに乗って精神体になるのなら手術の前だと言っていたので、そろそろなのだろうか。

 精神体になると、千恵の意識と肉体とが相互に影響を与えることは完全に無くなってしまうのだろうか。肉体の千恵への刺激を、精神体の千恵は何も感じないのか。考え始めてしまうと止まらなくなるので、碧は眼を固く閉じ、首を激しく振って、無意識にそのことを頭から出す努力をした。こんなことを一日に何回もやっている。

 カフェラテと千恵のことを考えないように生活をしていると、妙に淡々とした時間が過ぎていくのが不思議だった。映画を無音で観ているような感覚だった。
 登場人物が動いて、時間が経過していく。何をしているのか、何を考えているのかは分からない。ただ動き、時が経過する。それが今の自分だった。
 雅也のことや仕事のことが、あまり執着することなく目の前を流れていくのだった、

 なぜ千恵たちを避けるのか。最初のうちは碧自身も整理できていなかったが、そのうち千恵の決断を聞くのが怖いからだということを悟った。人間として寿命を全うするのか、それとも精神体としてこれまでの人間関係をすべて断ち切って地球を去るのか。どちらを選んでも、自分はショックを受けそうな気がしていた。だから自分は聞きたくないのだ。

 アミュターイシュ星では人口の九割が精神分離をしてしまうとカフェラテは言っていた。ということは、分離された肉体の生命維持を行う体制がごく普通に整っていることだろう。でも地球は違う。残された家族が千恵の介護をしていかなければならない。

 どうしても碧には、釈然としないものがあった。

 身体だけを残して精神は宇宙へと旅立っていく。事情を知らない人からすれば、ふいに千恵の体調が悪化したと思うだろう。なまじ事情を知っている碧から見れば、千恵が己の肉体を捨てていくように映っていた。
碧は千恵に無責任という言葉を重ねたくなかった。

 ベッドに入る頃には午前一時になっていた。薄明りの中で目を閉じた碧は、千恵とカフェラテのことを考えないようにするのは今夜で終わりにして、明日には千恵に電話をすることを決めた。

 金曜日の朝、碧は五日ぶりに住宅街を抜けてサイクリングロードを目指すコースを走った、ふくらはぎの痛みはほぼ癒えていた。
 帰路、篠崎邸の近くまで行くと、カフェラテを連れた千恵がブロック塀の横に立っていた。碧が頭を下げるよりも早く、千恵が「おはよう」と言って手を振った。

 碧が千恵の近くまで走り寄ると、千恵の背後にいたカフェラテが出てきて、前足で碧のランニングシューズを踏みつけた。
「碧が走っていくのが見えたから、戻ってくるのを待っていた」

 カフェラテは碧を見上げて言った。口許の毛が濡れて光っている「最近はこの道を通ることがなかったな」
「いつも同じところを走っているわけじゃないからね」

 碧はカフェラテを足からどかすと、しゃがんでその頭を撫でてやった。

 千恵の足元には水を入れたステンレス製のボウルがあった。普段は犬小屋の横に置いてあるものなので、待っていたという話はどうやら本当らしい。

 碧はカフェラテを抱いて立ち上がると、改めて千恵を見た。
「体調はどうですか」
 襟ぐりの広いベージュのサマーセーターにロングスカートを穿いた千恵は、碧の背中からの日差しが眩しいのか、眼を細くして「全然、大丈夫です」と答えた。

「明朝には千恵が病院に移動する。そこで今夜のうちに、碧と打ち合わせをしたいのだが、時間を取ってもらえるか」
 胸元でカフェラテが言った。二十時までに篠崎邸に来てほしいのだと言う。
「何の打ち合わせをするのよ」
「千恵の精神を肉体から分離することについてだよ」

 カフェラテの言葉にはっとした碧は千恵の顔に目をやる。千恵はきまりが悪そうに俯き、リードを持つ指先を小刻みに動かした。
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