第16話 雅也との夕食(1)

文字数 2,692文字

 (あおい)と雅也とは、お互いの約束事として付き合っていることを職場内で公にしないことにしていた。以前、隣のフロアの同期と付き合っていることを事あるごとに周囲にアピールしていた先輩が、破局後に職場に居づらくなった実例を見ていたからである。

 だが一方で、ばれてしまったときには頑なに否定することはしないことにしていた。逆に人間関係を悪くするからだ。

 碧の職場には二人の関係を気づかれ、碧がやむを得ずに告白した同僚が一人いた。吉野愛未(まなみ)だ。彼女は碧よりも一歳年上だが同期入社であり、長らく同じ部署に属していることもあって、同僚の中でも特に仲が良かった。バレるのは時間の問題だった。

 昼休み、その愛未が後ろの席から椅子ごと身体を近づけてきて、サンドイッチを食べている碧に話しかけてきた。

「ところで最近、田口君と喧嘩したみたいだね?」
「どうしてそんな質問をするの?」

 碧が聞き返すと、愛未は眉を顰めて「だって無視しているじゃない。喧嘩したことはばればれだよ」と言った。

 無意識に彼を近づけない変なオーラでも出していたのか。碧がこの数日の態度を反省していると、隣席の和泉(いずみ)芹那(せりな)が顔を近づけてきた。

「田口君って、営業部の子ですよね」
 芹那は二ヶ月前に採用されたアルバイトで、週三日の勤務シフトで入っている。

「彼、昨日もうちの部に来ていましたね」
「そうなの? 私は知らないわ」碧は驚いて芹那を見た。「昨日は一日、部長と外出していたもん」

 愛未は「何を今さらとぼけてんのよ」と言って、碧の肩を軽く叩いた。
「昨日に限らず、田口君はよく顔を出しているよ。入口に立ってじっと碧を見ていることもあるもの。まさか気づいていないなんてことは無いよね」

「えっ、気づいていないよ」それは本心だった。「だったら声を掛けてくれればいいのに」

「あれじゃストーカーみたいだから、私が本人に聞いてみたのよ。そうしたからは碧から無視されていると言っていた。そうかな、と思って碧を観察してみると、やっぱりそんな感じがする」

 何のことはない。雅也が喋ったから愛未は知っていたのだ。それにしても、二人のことを軽々しく同僚に話してしまう雅也の無神経さはどうしたものか。

「確かにストーカーですね」芹那は弁当のリンゴをもぐもぐと食べながら頷く。歳は碧より若いが、彼女は既婚者で子どももいる。

 愛未は周囲を一瞥(いちべつ)してから、少し声量を落として碧に言った。「このところマンションにも行かせてもらっていないと言っていたわよ。」

「そんなことを愛未に話しているの?」碧は憤然として声を上げた。

「今どきの男の子は、全方位型に素直ということよ」愛未は碧の怒りなど意に介さぬ様子で話を続けた。
 素直と言えば聞こえはいいが、そこに思慮分別はない。

「彼は碧がどうして無視するのかが分からないと言っていたよ。もう一週間くらい会っていないんだって? それで不安になって顔を見に来るんだから可愛いわね」

「無視はしていないわ」碧は強く否定した。

 碧には雅也を避けている意識はなかった。彼と会う機会がこの一週間で一度も無かったのは、千恵が入院して以降、宇宙からの精神体が実行支配している犬の面倒を見るのに夢中だったからだ。

 実際のところ、カフェラテの世話は思ったほど大変ではなかった。言葉が通じるところが大きく、ペットを飼うというよりは同居人が増えた印象だ。それでも食事をはじめ細々(こまごま)と世話を焼くことはあるので、碧は時間はもちろん、意識の何割かをカフェラテに占有されていることは否めなかった。

 だから雅也に向けられていた気持ちが削られているのかも知れなかった。

「無視している原因は何?」愛未が聞いてきた。

「だから無視はしていない」碧は答える。だいたい、雅也と夕食に出かけたのは先週の火曜日で、あれから八日しか経っていない。
 これまでもお互いに仕事が忙しくなれば一週間くらいは会えないこともあったのだから、今回が特別に長いということは無い。電話やLINEのやり取りもあるのだ。

「そうかなあ。傍目(はため)には碧が無視しているように見えるけど」愛未が言った。
「たった一週間食事に行かなかったくらいで無視したことになるの」碧はむっとした。「田口君がどうのこうのという問題ではなく、今の私には時間がないだけ」

「どうして時間がないのですか」今度は芹那が聞いてきた。「カレシよりも優先させなければならないことって何でしょう」

 思わず「犬の世話」と言いかけたところで、愛未が代わって答えてくれた。
「碧はキャリアアップに向けて勉強している。そうだよね?」

「えっ?」
 思いもよらない話に、碧は眼が点になった。

「知っているわよ。図書館で何か借りて読んでいるでしょう」
バッグに入れておいて電車で読んでいる本を愛未に見られていたとは思わなかった。碧は警戒心から目線を落としたが、愛未はそれを照れ隠しと思ったようで小さく笑った。

「何の資格を勉強しているの?」
「そんなことしていないわ」

 図書館から借りた本で勉強しなければならないような資格など、碧には心当たりがなかった。今どきは通信教育を利用するものではないのか。

「でも、あの本は小説じゃないよね。だって難しいタイトルの本だったもの」

 碧は返答に詰まった。『惑星のなりたち』が難しいタイトルとは思えない。子ども向けの明るいデザインの装丁が資格取得の教本に見えたのかも知れなかった。

 碧は愛未の誤解を正そうと思ったものの、今度は「どうして宇宙に興味があるのか」と聞かれそうな気がして、訂正の言葉を飲み込んだ。

 本の誤解はともかく、碧が忙しくする理由を愛未が勘違いしてくれたのはありがたかった。できればこのまま話を止めず、先に流れていくのを見送るほうが良さそうだ。

 さっきは危うく「犬の世話」と口にするところだった。興味を示されて、「見に行きたい」と言われていたら断るのが大変だったはずだ。

「カレシよりも勉強ですか。なんだか古臭い話」芹那がつまらなそうに呟いた。

「和泉の考え方こそ古臭い」愛未が言った。「女だって稼げるスキルを身に着けて進むの」

「じゃあ、愛未さんは何かやっているんですか」
「それは言えない」

 二人のやり取りを聞きながら、碧はサンドイッチを口に運んだ。雅也の話が切り替わったことに安堵した。

 とは言え、雅也が碧から無視されていると感じているのであれば、何とかしないといけないと思った。碧は雅也のことが嫌いになったわけではないのだ。

 きちんと誤解を解いておいた方がいいかな。碧は勤務時間が終わったら雅也と話し合うことに決めて、夕食を誘うメッセージをLINEで送った。
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