第30話 明かされる千恵の病状(1)

文字数 2,542文字

 午後七時を少し回った頃、(あおい)はカフェラテを連れて篠崎邸の玄関を入った。実はその一時間ほど前に篠崎邸を訪れていたのだが、洋介の車がガレージにあるのを見て引き返していた。洋介ならまだしも、枝里子とは顔を合わせたくなかった。

 玄関で碧を出迎えてくれた千恵は、薄いブルーのTシャツにグレーのスェットパンツ姿だった。朝の散歩でしばしば見る軽装だった。

「碧さん、夕飯はまだかしら」
「いえ、もう食べました」

 実際にはまだ夕飯を食べていないのだが、碧は嘘を言った。足元のカフェラテが「そうなのか」と聞いてきたので、碧は千恵に気づかれぬよう気をつけながら「黙っていて」と言い渡す。面倒臭い犬だ。

 大体、私はあんたのしでかしたことを許してはいないのだぞ。碧は軽くカフェラテの尻を蹴った。

 碧が雅也とのデートから帰宅した時、カフェラテはリビングのローテーブルの上でノートパソコンを操作しようとしていて、碧に悲鳴を上げさせた。ログインパスワードの入力をするため、口に咥えたボールペンでキーボードを操作しようとしたようだが、シフトキーを押しながらの大文字入力ができなかったようだ。

 ログインパスワードをどうやって知ったのか。また頭の中から情報を得たとしか考えられなかったが、そんなことよりもカフェラテの(よだれ)がキーボードの上にぼたぼたと落ちていたのを碧は看過することはできなかった。

「壊れちゃうじゃないの」碧は声を荒げ、思わずカフェラテをテーブルから突き落とした。腰から床に落ちた犬は、痛みに対する反応か、それとも抗議のつもりなのか、キャンキャンと激しく吠えた。

「何を調べようとしていたのよ」碧はティッシュでキーボードを拭きながらカフェラテに聞いた。「どうせ私の頭の中を覗くだけでは駄目な情報なんでしょう。でも私に言ってくれれば調べてあげたのに。内緒で調べようとしたということは、どういうことなのさ」

「内緒で調べようとしたわけではない。時間を効率的に使おうとしただけだ」
「謝ってよ」碧は犬の顔を見ずに言った。「地球ではやってはいけないことをしたときは謝るのよ。アミュターイシュ星だって同じでしょう」

 本気で謝罪を求めたわけではなかった。カフェラテの中にいる精神体の性格からすれば、やりたいことはためらわずに行動することは予想できていたのだ。パソコンをカフェラテの手の届かない場所に置いておけば良かったという自戒からくる苛立ちを犬にぶつけていたに過ぎない。

「謝るという行為の概念が私は理解できない」カフェラテは碧の予想通りの言葉で答えた。「過失、事故、失敗に対して、適切な是正が行われればいいのではないか」

 その是正をしているのは私だ、と碧は涎で濡れたティッシュをゴミ箱に投げ込みながら思った。是正ができなかった場合に損害を被るのも私なのだ。

「理解できない、理解できない、理解できない。そればっかり」碧はクッションを掴むとカフェラテに投げた。「少しは理解しろ」

 とりあえずキーボードがすべて反応することを確認してから、碧は寝室に言ってベッドに寝転んだ。すぐに千恵のところに行こうという気持ちにはならなかった。ちょっとくらい休んでもいいだろう、と思った。

 仰向けになって目を閉じていると、カフェラテが身体の上に乗ってきた。碧は寝返りを打ってカフェラテを身体から退けた。

「千恵のところに早く連れて行ってくれないか」
「ちょっと待って。私も少し休みたいの」

 カフェラテがベッドから降りる気配が感じられた。碧はそのまま一時間ほど眠り、午後六時前に目を覚ましたのであった。

 千恵は碧を奥の和室へ案内すると、自分は台所から麦茶と茶菓子を出してきた。
「本当に夕飯を食べなくてもいいのかしら。実は碧さんと一緒に食べようと思って用意してあるんですよ」
「私は結構ですが、千恵さんは食べてください」

 碧の言葉に千恵は少し躊躇(ためら)いを見せたが、碧が再度勧めると「じゃあ、食べちゃいますね」と言って腰を上げた。碧は「手伝いましょうか」と申し出たが、千恵は笑顔で「大丈夫」と答え、台所へと向かう。その背中をカフェラテが追いかけていくのを眺めて、碧は肩の力が抜けた気がした。

 しばらくするとカフェラテだけが和室に戻ってきた。
「碧は食事をしていない。空腹を感じている。なぜ事実ではないことを言ったのか」
「食べたくないだけよ。角が立つから、もう食べたと言っただけ」
「なぜ角が立つのだ」
 碧は説明が億劫(おっくう)だったので返事をしなかった。

 千恵は見たところ元気そうであり、碧が世話を焼く必要もなさそうだった。そうであればカフェラテを残し、自分は早々にマンションの部屋に帰りたくなった。

 千恵の夕飯は冷や麦と、スーパーで買ってきたという総菜だった。枝里子に頼んでスーパーに連れて行ってもらい、二人分の総菜を買ってきたと説明され、碧はげんなりする。二人分の食材を買いながら、枝里子さんは何を思ったであろうか。

「また入院すると仰っていましたけど、それはいつですか」
 碧が聞くと、千恵は壁のカレンダーを見ながら、「十七日の火曜日。ちょうど十日後ね」と答えた。

「手術をして、頭の不具合を良くするのだと言っていました。私、その説明を受けた時にはさすがにショックを受けましたよ」

「頭の手術をするのですか」碧も少なからず動揺した。脳の腫瘍なのだから、そういう可能性もあるのかと思っていたが、本人から聞かされると現実の生々しさがある。碧は「大丈夫なんですか」と聞こうとして、かろうじて口を閉じた。大丈夫ではなかったらどうしろと言うのか。

「お医者様の話では、こういう手術はいくつも例があって、今では普通に行われるらしいのですよ」
「そうなんですね」碧は少し安心した。

「来週の土曜日にもう一度入院して、火曜日が手術です」千恵は広縁の板の間で腹ばいになっているカフェラテを手招きすると、頭を撫でた。「それまではカフェラテと一緒に暮らしたいと思うのですが、碧さん、いいですか」

 碧には反対する理由などない。
「この家で過ごされている間は、御家族がどなたか同居なさるんですか」

 碧の質問に、千恵は顔の前で手を振りながら、「いえ、誰も同居しませんよ」と答えた。表情は穏やかだが、口調は固く感じられた。
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