第50話 千恵が去った後に・・・(1)

文字数 2,598文字

 その夜、(あおい)はリビングで麦茶を飲みながら、図書館で借りてきた図鑑を眺めていた。レポートを書かなければとは思うものの、資料は出張時に持って行ったトートバッグの中に入れっ放しで、そのバッグは寝室のクローゼットの中に置いたままだ。

 碧は帰り道のコンビニで買ったビスタチオを口に放り込む。日頃は爪先が荒れるのが嫌であまり買うことはないが、味は大好きだった。

 今日は自分への御褒美のつもりで衝動買いしてしまった。大きな仕事をやり遂げたのだから、この際爪の一つや二つ割れてもいいと思っていた。

 カフェラテはゲージの中で、これまたコンビニで買ったペット用のささ身肉に(かじ)りついている。精神体がいなくなった今、この部屋の記憶があるとは思えなかったが、パニックになることも無くゲージ内でおとなしくしていた。

 おしっこはトイレシートがあるので対処ができている。糞についてはよく分からないので、もう少し経ったら散歩に連れて行こうと考えていた。

 碧は図鑑をペラペラと(めく)りながら、千恵とカフェラテはどこまで飛んで行ったのだろうかと思いを馳せた。
 アミュターイシュ星の技術では光速の七割のスピードが出せると言っていた。では三時間ではどこまで進むのだろう。
 碧は電卓を取ってこようと思ったものの、すぐにその気が失せた。興味よりも面倒臭さが勝ったのだった。

 宇宙人と別れたので、これからの碧の人生は宇宙とは無縁なものとなる。地球の重力を受けながら歩いて、走って、地表から一・五メートルちょっとの高さの位置にある眼を前に向けて生きていくのだ。

 今頃病院はどうなっているだろうか。おそらく、あれから時をおかずに家族が呼ばれたのに違いない。容体の急変を目の当たりにした洋介や枝里子がショックを受けたことを想うと、碧はさすがに気の毒に思った。

 明日の手術は予定通り行われるのだろうか。いや、想定外の容体悪化を看過できなければ、夜のうちに緊急手術が行われているかも知れなかった。

 だが、どのような措置をしても、千恵は回復しないのだ。

 もはや外界との意思疎通ができなくなった千恵はこの先一年、五年とベッドに寝たままだ。その千恵に家族は無言で語りかけていくのだろう。彼女の意識は遥か彼方にある。

 碧はビールを飲もうとキッチンの冷蔵の前まで行きかけたが、窓の外から入ってくる生暖かい風に気づいて立ち止まる。
 雨はマンションの駐車場に停めた車から降りた時にはやんでいた。あれから何時間が経ったのか、正確には知らないけれど、少し蒸し暑くなっているようだ。

 彼女はリビングの椅子の背もたれに掛けてあるリードを手にすると、カフェラテをゲージから出した。

「散歩に行こうか」
 今のカフェラテは話しかけても返事はしない。碧は犬を抱いて部屋から出た。

 碧はこれまでカフェラテを散歩させた経験がなかった。毎朝、篠崎邸までカフェラテを連れて行き、仕事帰りに連れ帰るだけだった。あれは散歩と呼べるものではないだろう。

 マンションのエントランスを出た碧は、住宅街に向けて濡れたアスファルトの上を歩き出した。
 空は雲に覆われていて黒かった。強い向かい風を受けて街路樹が揺れている。碧の身体に水滴が一つ、二つと落ちてきた。

 これから先、カフェラテを引き取ることになるのかは決まっていない。もし引き取ることになれば、ジョギングをする時間を削らなければならないかも知れなかった。

 篠崎邸の庭の前に来ると、家の明かりが灯っているのが分かった。千恵の異変を聞いて、親族が集まっているのかも知れないと碧は想像した。
 これまで暮らしてきた家なのだから、カフェラテが庭に入りたがるものと思ったが、子犬は特に反応しなかった。碧はカフェラテをリードで誘導するかたちで住宅街を歩いた。

 碧は一キロほど歩いたものの、カフェラテが何も興味を示さず、用を足そうともしないので、Uターンしてマンションへと戻ることにした。犬の散歩はこんなものだったのか、と少し拍子抜けする思いだった。

 帰路は同じ道を通るのではなく、篠崎邸の玄関がある側の道路を通ってみた。何となく気になったからとしか言いようがない行動だった。

 篠崎邸ではガレージが満車になっており、前の道路にも複数台の車が路上駐車していた。やはり少なくない数の人間が集まっているようだ。

 碧は門の前で立ち止まった。いずれカフェラテをどうするのか、この家に洋介らと話をしなければならない。孫たちが引き取りたいと言い出したら、自分はどんな気持ちになるだろうな、と思いながら碧はマンションへと歩き出した。

 部屋に戻ってカフェラテとシャワーを浴びた頃から、碧は頭が重く感じられてきた。昨夜からの睡眠不足に今日の疲れが加わり、身体が休みたがっているようだった。

 碧はカフェラテの身体を拭いてやるのもそこそこで切り上げてゲージに入れると、自分はベッドに飛び込むと目を閉じた。

 眠りはすぐに訪れた。だが浅い眠りだったようで、碧は夢を見た。

 夢の中の碧は高校の体育館でバスケットの試合を見ていた。自分の知っている人たちがコートでプレーをしているようだ。彼女自身は、何かの理由があって試合には参加していなかった。
 そこに総務係長がやってきて、しきりに会社に戻れと言う。試合を見ているから戻れないと断ると、「L女」は仕事をしなければだめだと叱られてしまった。

 係長に連れられて体育館を出ると、両親が高校時代の部活の顧問と一緒に登場し、忘れ物があるぞと言い出した。碧、お前は忘れている。

 何を忘れているのか、と自問自答しているうちに目が覚めた。枕もとのスマホに手を伸ばして画面を見ると、午前二時だった。

 碧はまた眠りに入ろうと目を閉じたが、数時間前の病室でのこと、そこから時間を(さかのぼ)って篠崎邸に泊まった夜のこと、千恵から病気のことを打ち明けられたことなどを次々と思い出した。

 千恵が宇宙に行くと告げられてから、碧は残される家族のことがずっと気がかりだったはずだった。それがいつの間にか、千恵の計画を成功させることだけに夢中になっていたような気がする。

 昨夜はあれから、千恵の眠るベッドを囲んで家族は悲しんだことだろう。その情景を想像した時、碧は胸が詰まったような感覚に陥った。
 慌ててベッドから出ると、トイレへと急ぐ。かろうじて便器の前に到達した碧は、酸っぱい液を吐き出した。
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