第24話 市立病院にて(1)

文字数 2,518文字


 千恵から指定された午前十時よりも三十分ほど早く、(あおい)たちは市立病院の駐車場に着いた。マンションを出た頃に降り出した雨は、アスファルトを湿らせたくらいで勢いを弱めていたが、院内の敷地を歩く人たちはみな傘を差している。

 碧は車を降りると、後部座席のドアを開けてカフェラテを車外に出した。結局、カフェラテを院内に連れて入ることは選択しなかった。リスクの大きさと千恵との接触の成功率の大きさを比較した結果での判断である。
 カフェラテも碧の結論を聞いてからなお強く主張することはなかった。駐車場の周囲を散歩しながら碧が戻ってくるのを待つのだという。

 碧は外来患者でにぎわう待合所を進み、カウンターの奥の入院受付窓口で篠崎千恵の名を告げた。職員から身元を聞かれたので、碧が名を答えて「退院の手伝いです」と説明すると、「七階のナースステーションに声をかけてください」と言われた。

 七階のナースステーションでは病棟来訪者として名前の記入を求められた。

 病室に近づくと、閉められたドアの向こうから何やら言い争う声が漏れ聞こえてきた。碧は部屋の入口に掲げられたプレートの三番目に千恵の名前を確認すると、ゆっくりと引き戸を開けた。

 病室は四人部屋だった。奥の二つのベッドはカーテンが引かれている。手前のベッドのうち、左側のベッドは使用者がいるようだが姿はなかった。

 右側のベッドは畳まれた上掛けと枕が隅に寄せられ、真ん中に千恵が座っていた。すでに身支度も終わっていて、彼女は薄いベージュのブラウスに、グレーのパンツ姿だった。

 千恵は碧の姿を見ると、「待っていたのよ」と声を上げた。彼女の横には四十代前後の男女が立っていて、千恵の言葉に反応して碧を見た。

 女性については挨拶したことがあるので、碧にはすぐに千恵の息子の妻であることが分かったが、男性の方は初対面だった。温和そうな丸い顔に度の強そうな眼鏡をかけている。
 千恵の息子であれば彼女の入院の際に篠崎邸の玄関先で会ってはいるはずだが、相手は運転席に座っていたので碧はその顔をよく見ていなかった。

 碧は部屋の入口で名を告げると頭を軽く下げた。男女も頭を下げたが、その顔には笑顔はなく、戸惑っている様子があからさまだった。
 察するに千恵は、碧が来ることを二人に告げていなかったのではないか。千恵にしても待っていたと言う割には、碧に向けられた表情が強張っている。

「碧さんはこの二人とは会っているわよね」

 碧が自信なく「はあ」と頷くと、千恵は「息子の洋介と、その嫁の枝里子さん」と紹介した。おかげで三人はもう一度互いに頭を下げる羽目になった。

 こういう空気になっていることは、言い争う声が聞こえた時から察しがついていた。碧は一つ深呼吸をすると、「千恵さんに頼まれて、迎えに来たのですが」と切り出した。どうせ揉めるのであるから、最初からストレートに話をした方が余計な気を遣わなくて済む。

「それは本当にすみません」
 枝里子の声は申し訳なさそうに聞こえた。「義母(はは)が連絡をしてしまったのですね」

「はい」
 頼まれて迎えに来たと言っているのだから、確認せずともそういうことは分かるはずだ。それを敢えて聞いてきたのは、千恵を非難しているように受け取れた。

「それは申し訳ありません。母は自宅には戻らず、介護サービス付きの施設でお世話してもらう予定なのです」
今度は洋介が口を開いた。そして碧と目を合わせると慌てた様子で「その話はお聞きになっていなかったんですよね。今回は連絡が行き違いになってしまいました」と言って頭を下げた。
 身長はそれほど高いようには見えず、雅也よりも少し低いくらいだが、肩幅が広かった。

「私は行きません」
 千恵が強い調子で言った。まるで周りに宣言するような勢いがあった。

 微妙な間が開いた。洋介が小さくため息をつく仕草をしたのが碧には見えた。

「次の入院までの間、自分の家に戻って生活していても何も問題はないはずです。今までずっとそうしてきました。たかだか一週間じゃありませんか」

 千恵の目線は目の前の息子と、少し離れたところに立つ碧の間を行ったり来たりした。

「一人で過ごすのは心配だと言っているんだよ。だからショートステイをお願いしたんだけどね」洋介は天井を見上げて頭を抱えた。「僕に何回、同じ話をさせるんだよ」

「だって、私は介護が必要な身体ではありませんよ」
 息子を睨みつける千恵の両肩に、背後から枝里子が手を置いた。

「お義母さん、突然倒れてしまう危険があると先生が仰っていましたよ。いざというときに周りに人がいないと困るじゃないですか」

 この親子はいったいどれくらい前からこの話を繰り返しているのだろうか、と碧は想像してみた。議論が平行線であることは、お互いの主張に歩み寄りの内容がないことから(うかが)える。

 碧はあくまでも部外者の立場なので、話し合いが決着するまで待つしかない。意見を求められるのなら言ってもいいが、それで解決する保証はない。

「すみません、話し合いの真っ最中のようなので、廊下で待たせてもらいますね」

 碧は入口の引き戸を開けて出て行こうとした。その背中に「碧さん、ちょっと待って」と千恵の声が飛ぶ。

「母さん、駄目だよ。息子として認められないよ」
「私の自由にさせて頂戴よ」

 振り返ると、立ち上がって出て行こうとする千恵を、洋介が押しとどめている。細身の千恵の力では、がっちりした息子をよろけさせることもできないようだった。

 こういう展開になると碧も退室しづらくなり、彼女は戸を閉めてベッドの横に戻った。

「わがまま言わないでくれよ。周りの患者さんにも迷惑だろう」
 洋介の言葉に碧は納得した。各ベッドのカーテンが閉められているのはそういうことなのだ。

「お願いだから、私のお願いを聞いてほしいの。私は家に帰りたい」
「母さんの気持ちは分かるけど、一人きりにはさせられない」

 また堂々巡りが始まった。親子の言い合いに耐えられなくなったのか、枝里子が「ちょっとごめんなさいね」と言って、丸椅子に腰を落として首を垂れた。

 仕方がない。この膠着(こうちゃく)状態から抜け出すには自分が口を挟むしかない、と碧は思った。
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