第64話 9年を経て知ること(4)

文字数 1,999文字


 (あおい)は全身にけだるさを感じた。目の前の枝里子を中心にした光景がぐにゃりと柔らかくなって回転を始めたように見えた。後ろに倒れそうになって、碧は右手を畳の上に突いて、やっとのことで身体を支える。

 背中を汗が流れ落ちる感覚があった。

 碧は膝の上にいるカフェラテを見た。今の会話をカフェラテがどのように受け止めたのかを知りたかったのだ。だが、カフェラテは顔を横に向けたまま目を閉じていた。眠っているようだった。

 今の話を私一人で受け止めなければならないのか、と思うと悔しさがこみ上げてくる。碧はカフェラテの尻を少し強めに叩いた。驚いた犬は短く吠え、首を伸ばして碧を睨むと、歯を()いて威嚇して見せた。

「千恵さんは、最期はどうなってお亡くなりになったんですか」
 碧の声は震えていた。

 枝里子は「先生からは脳出血を起こしたと説明されました」と答えてから、「ああ、それで頭のことを訊いたんですね」と自分の中で納得したようで、碧に千恵の病気について詳しく説明してくれた。

 千恵は七十歳を過ぎてから健康診断で糖尿病と診断され、長らく投薬による治療を続けていたのだが、七十代後半になって脳梗塞で倒れたのだという。カフェラテと暮らすように一年後のことだった。

 幸い脳梗塞は軽度だったので、すぐに退院して日常生活に戻ることができたが、元の一人暮らしを継続しようとする千恵と、介護付きのグループホームへの入所を勧める洋介との間で揉めるようになった。

 ほぼ同じ時期に枝里子が神経膠腫(しんけいこうしゅ)の摘出手術を受けたばかりで、洋介としても母の面倒を見るのに限界があった。

 そのうち千恵に再び脳梗塞の兆候が見られたことから、カテーテルによる措置を行うために入院したところ、千恵が脳出血を起こしたのだと枝里子は語った。

「そんな状況だったので、私の病気のことは義母には内緒にしていたのですよ。それなのに、どこかで気づかれてしまったみたいですね。あの当時のことは全般的に記憶が曖昧で、はっきりと覚えていないのですが、碧さんから神経膠腫の名前が出て、びっくりしたことは覚えています」

「――あれは、配慮が足らずに本当にすみませんでした」
 碧は次々と浮かんでくる様々な思いを抑え込むのに必死だった。

 枝里子に向かって神経膠腫の話をしたときの記憶は、碧の中でもはっきりと残っていた。枝里子の何かに切迫して強張った顔が忘れられなかったのだ。

 どうして千恵は自分の病気を神経膠腫などと言い出したのだろう。これも彼女の無邪気な嘘の一つだったのか。悪意がないと言ってもいい部類なのか。

 そもそも枝里子たちが隠していたという神経膠腫という病名を、千恵がなぜ知っていたのか。

 碧はここで重大なことに気づく。
 違う。神経膠腫という病名を碧に伝えたのは千恵ではなく、カフェラテだった。

 ということは、千恵が嘘をついたのではない。

「水原さんにとって、義母はどんな人でした?」
 枝里子が聞いてきた。

「可愛らしい人でしたね、少し頑固なところはありましたけど」
 碧は生前の千恵とのやり取りを思い出しながら、慎重に言葉を選んだ。

「そうなんですよ」
 枝里子が頷いた。

「茶目っ気があって可愛らしい人でした。でも、こうと思い込んだから一途というか、頑固でしたね。思い込みが激しくてよく叱られましたよ。若い頃は教員をしていたので、意志が強いのはそういうところが関係してくるんでしょうか」

 かつて教員だったという話は本当だったんだ、と碧は思った。

 結局、碧の中での千恵という人物は、謎だらけだった。

 千恵は碧には自分の持病の話は一切しなかった、頭に病気があると知って碧の前で涙を見せていながら、一方で脳梗塞のことは隠していたことになる。その理由は碧には見当もつかない。

 旅行に連れて行ってもらえないという話は嘘だった。カフェラテは孫が預かってきたという話も嘘だった。そこに何の理由があったのだろうか。

 友人たちと中国旅行した話はどうなのだろう。こうなってくると、かつて図書館の中で見せた素朴な笑顔も疑わしくなってしまう。

 まるで千恵自身が脚本を書き、千恵が主演する演劇に碧も共演させられていたようなものだった。

 千恵にとっての碧は、自分が演じたいと思う篠崎千恵をそのまま受け入れてくれる存在だったということだろうか。何しろ知り合ったのが千恵の最晩年であり、彼女のことを何も知らなかった碧なのだから、嘘をつくのは難しくなかったはずだ。

 息子や嫁とは違って、碧は真剣な演者だ。千恵にはたまらない存在だったろう。

 何とも言えない気持ちが胸からせり上がってきて。碧は鼻がツンとした。目頭に涙が滲んだ。

「どうかしましたか?」
 目の前で枝里子が心配そうな目を向けてきた。

「何でもありません」
 碧は湯呑みを掴むと、冷めたお茶を飲んだ。さっきから上半身がストーブの熱に(さら)されていたので、その冷たさが心地良かった。
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