第54話 弄ばれて気づいたこと(2)

文字数 2,099文字


 午後六時からの通夜式は、碧のマンションから車で二十分ほどの距離にある葬祭場で催された。時間ギリギリで到着した(あおい)は、カフェラテを連れて焼香を待つ人の列に並ぶ。参列者はそれほど多くなかった。

 入口で洋介に挨拶をした碧は会葬者の席に座るように依頼されたが、カフェラテを連れていることを理由に辞退した。

 祭壇の千恵の写真は、碧の知っている顔ではなく、かなりふくよかな顔をしていた。若い時期に撮られたものなのかも知れなかった。

 間もなく三名の僧侶が入場して読経が始まり、参列者の列が動き出した。碧の焼香の順番になると、彼女に気づいた枝里子が黙礼をした。
 横に座る女の子がこちらを指差しながら小声で枝里子に話しかけている。きっとカフェラテのことを話しているのだ、と碧は想像した。

 焼香を済ませた碧は祭場を出ようとしたところで、出入口付近に故人の生前の写真がたくさん飾られていたことに気づいた。せっかくだからと、碧は焼香に並ぶ人の列を通り抜けて写真のすぐ前まで行った。

 写真は千恵が家族と一緒に撮ったものを中心にして、若い頃に洋介と思しき子どもと一緒に撮ったもの、複数の女性と撮ったものなのが混ざっていた。
 千恵の次に写真に多く納まっているのは丸顔の細身の男性で、千恵とのツーショット写真が数枚あった。
 彼女と年齢が近そうなので、夫で間違いないだろう。

 その夫との写真の背景は有名な観光地ばかりで、高く聳える雪山、噴煙を上げる火山、横臥(おうが)する巨大な仏像、大きな滝など、碧が雑誌などで見たことがある景色が多かった。

「旅行好きの夫婦だったんだね」
 碧の後ろで写真を眺めている男性の声が聞こえた。碧は背中から首にかけて水をかけられたような冷たさを感じ、ざわざわと鳥肌が立った。

 夫には嘘をつかれた、どこにも連れて行ってもらえないとは思っていなかった、詐欺だと思いませんか、と訴える千恵の言葉が(よみがえ)ってくる。

 飾られている写真のうち何枚かは、確実に海外で撮影されたものだ。あまり海外旅行に縁がない碧にだって、それくらいは分かる。

 大きな滝を背景にして撮られた写真では、千恵、千恵の夫、そして洋介の三人が並んで立っていた。大リーグのキャップを被った洋介はどう見ても小学生で、その後ろに立つ千恵は三十代後半か四十そこそこといったところか。若々しさが(あふ)れる笑顔だった。

 三人の横に建ててある案内板の文字は日本語ではなかった。アルファベットではない特殊な文字があるので、英語でもなさそうだ。写真の端には西洋人と思しきカップルが見切れていた。

 幸せそうな写真なのに、それを眺める碧の心は穏やかの対極にあった。最初に感じたに冷気が去っていき、次第に身体がかーっと熱くなってきた。

 碧は腕の中のカフェラテを見る。

 マンションに戻ったのは午後七時過ぎだった。碧は部屋に入るとキッチンに行き、ペットボトルの水を自分に半分、そしてカフェラテに半分、分けて飲んだ。

 カフェラテは通夜式に出かけている最中、ずっとおとなしかった。自由勝手に動き回ることもせず、吠えることもなく、碧が焼香をしているときも足元でじっと待っていた。帰りの駐車場で駐車場所を見失っていた碧に、自らリードを引いて案内までしてくれた。

 手が掛からないどころか、役に立つペットだった。

 カフェラテは寝室に入る碧の後ろからついてきた。碧が礼服から普段着に着替えている間は、ベッドに飛び乗って碧の様子をじっと見ている。
 碧は何かを言いかけ、慌てて頭を激しく振った。そして一度深呼吸をすると、「御飯にしようね」と声を掛けて寝室を出た。

 碧の夕飯は雅也と愛未からプレゼントされた菓子パンだ。でもそれだけでは寂しいので、冷蔵庫にあるベビーリーフとミニトマトを皿に盛り、ドレッシングをかけて食べた。カフェラテには千恵から引き継いだドッグフードと牛乳である。
 足元で元気にドッグフードを食べる子犬に、碧は「食欲旺盛でいいわね」と話しかけた。

 食事を終えた碧は、洗い物を終えると室内干ししていた洗濯物を畳んだ。そして風呂に湯を入れながら、洗面所で化粧を落とす。毎日の繰り返し作業をこなしながら、頭の中はあることで占められていた。

 午後八時になった。碧はカフェラテを連れて散歩に出た。昨夜は住宅街に下って行ったが、今日は逆方向に坂道を登った。暗い道を歩きながら、碧はこれから日が短くなる季節に備えて懐中電灯みたいなものを携行したほうがいいと考えた。

 途中、同じように犬を散歩させている人たちと何度かすれ違った。相手の犬が増えることがあったが、カフェラテは吠えなかった。さっと碧の後ろに身を隠し、やり過ごそうとするのだった。
 カフェラテの小さい体躯(たいく)からすれば当然の行為なのかも知れなかった。

 散歩から帰宅すると、碧はカフェラテ専用の皿にミネラルウォーターを入れてやり、それを小さい口でせっせと飲むのを眺めていた。

 水を飲み終えたカフェラテは、口の周りの毛を舐めると、尻尾を振りながらゲージに向かって歩き出す。その後ろ姿に碧は「ちょっと待って」と声をかけた。

 「話があるのよ。ソファーの方に来なさい」
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