第23話 アミュターイシュ(2)
文字数 3,373文字
説明を終えたカフェラテは大きな
「ちょっと待ってね」立ち上がった碧はキッチンに行ってペットフードの皿に水道水を注ぐと、戻るついでに部屋の隅の収納ボックスから電卓を持ってきた。
「あんたの年齢は、計算すると三百四十二歳になるわね」
それは三百万時間を二十四と三百六十五で割った結果だ。だが、水を飲み終わったカフェラテは首を振った。
「私の星には年齢という概念がない。一公転周期の時間単位と言うことであれば、地球と自転と公転の周期が違うのだから、あまり意味がないのだが」
意味がないと言われて碧はむっとする。
「合理的なことを言っているようで、実は面倒臭いことを言っているという自覚をしなさい。『この星の時間に換算するのなら』と前置きするのなら、同じように換算すればいいじゃないの」
碧には精神体が説明した内容を理解できた自信は無かった。分かったことは、こいつが長命で、肉体はどこかにあって、私たち同様にいつかは死ぬ、ということ。星々を旅するのは情報収集のためだということぐらいだった。
「アミュターイシュ星は、地球から見えるの?」
「ほかの星に
今の時間帯であれば、私の星は南の方角にある。でもここからでは仰角が小さく、地表面の人工光の影響を受けるから見えないだろう、とカフェラテは言った。
「なんだ、つまらない」
「可視光線の範囲外の光を感知できる装置を使えば、私の星は無理だとしても、私の星が公転している恒星は見えるかも知れないな」
それって普通の天体望遠鏡では無理なのかな、と碧は思った。
「それで、地球からどれくらい離れているの?」碧は聞いた。「あんたの星から十四万時間で地球に来たというけれど、数字が大きすぎて、私には距離感が掴めないわ」
「長さを示す単位がお互いに違うのだから仕方がない」カフェラテは平然と答えた。「今のところ、碧に理解してもらうには時間で説明するしかない」
「だったら私に分かる計算をしてよ。光速の三割引のスピードで飛んできたのよね」少しイラっとした碧は電卓を叩く。「地球にやってくるのに十六年かかった計算ね。これを三割増しのスピードにすると、だいたい十一光年ということになるわ」
「直線軌道で移動しているわけではないので、もう少し距離は短くなるだろうな」カフェラテは言った。
「地球に近い恒星系で検索するわ」碧は席を立ち、窓際のローテーブルに行くとノートパソコンの電源を入れた。カフェラテも碧の後をついてくると、テーブルの横のクッションに座った。
「どれなのよ」
ウイキペディアで「地球に近い恒星一覧」を検索した碧はカフェラテに画面を見せた。
「私は地球での名称について知識がないから分からないぞ」カフェラテは答える。しかし碧は画面をスクロールさせていって、カフェラテに特定することを強要した。
地球から見える方向、他の星との位置関係から、おそらくラカーユ九三五二という名の恒星の周りを公転している星が精神体の故郷のアミュターイシュ星ではないか、という推測をしたのは、それから三十分後だった。
時刻は午前三時をとっくに過ぎていた。そろそろ寝たほうがいいと思うが、目は冴えていた。
「ところで」碧は改めてカフェラテに向き合った。
「一度は必要ないと言われたけれど、私はあんたにカフェラテではない名前を付けたい。どんな名前がいいかしら」
カフェラテは首を振った。「私を識別するコードについては、先程発声してみたが、カフェラテの喉と口の構造では発声ができず、また碧にも聞き取ることができなかったのではないか」
「だから、改めて名前を付けるのよ」碧は言った。
「今夜の話を聞いたら、やっぱりあんたはカフェラテではないと思った。私の中では、肉体のカフェラテと精神体のあんたを同一には捉えられない。だから名前を付けたいの」
「碧が望むなら、そのようにすればいい」
「あんたには私から呼んでほしい名前はある?」
「そういうものはない」カフェラテは立ち上がると寝室に向かって歩き出した。
「ちょっと待ってよ」
碧は呼び止めたが、カフェラテは何も応えずに引き戸の向こう側の暗がりに消えた。精神体の命名の話は、これで立ち消えとなった。
碧はカフェラテが急にそっけない態度を取ったように思え、少し唖然とした。だが、自分もベッドに入る時間帯であることに気づき、もはやいろいろと考えることをやめた。
寝室に入ると、カフェラテは身体を丸めて籠の中に入っている。碧もベッドに身体を横たえた。
朝は不意に訪れた。
時計のアラームが午前七時を知らせた時、碧は本気で死ぬかも知れないと思った。それくらい眠かった。とりあえずアラームを止めて、そしてもう一度ベッドに寝転ぶ。
外からは雨の音がしていた。窓を開けていたせいか、少し肌寒かった。碧は身体の下敷きになっているタオルケットを引っ張り出し、上から掛けた。
いつもであれば朝食前にジョギングをするところだが、雨であれば中止だ。三十分以上もの時間が空いたので、もう少し眠ってもいいかもしれない。
天井のクロスの模様を見ながら陶然としていた碧が、自分の予定を思い出すのに数分の時間を要した。
今日は千恵のところに行くのではなかったか。碧は自分がそのことを忘れていたことに驚いた。慌てて身を起こし、ベッドから立ち上がった碧は、立ち眩みを起こして床に手を付いた。猛烈な欠落感が体内に生じていた。
何か大事なものが身体から無くなったような感覚に、碧の呼吸は荒くなった。胸が苦しかった。
碧は込み上げる嘔吐感に焦り、左手で口を押え、右手で身体を支えながら前に進む。途中、
何とかトイレにたどり着いた碧は胃液を数滴吐くと、キッチンで口をゆすいだ。ようやく気持ちが落ち着いた彼女の視界には、リビングのクッションに座るカフェラテの姿があった。
「あんた、また何かやったわね」碧はカフェラテを睨んだ。
「その結果として、よく眠ることができたのではないか」
こういうことを言うときのカフェラテが、碧にはとても憎たらしかった。人間に比べて表情変化が乏しい犬の顔が災いして、碧にはカフェラテがとぼけているように感じられて仕方がないのだ。
もちろん表情の乏しさをうんぬんする以前に、精神体自体の超然とした性格からして相手の心情をおもんぱかった態度を期待するのが無理な話で、要するにとぼけているのではなく素の態度なのだ。
「碧が短時間で心身の休養を取ることが可能になるよう、千恵さんを迎えに行く予定に関する碧の思考パターンの
「――」
礼を言うべきなのか、文句を言うべきなのか、碧は迷った。言われてみれば、三時間ほどしか眠っていないのに頭の中はすっきりしている気がする。
ただし、カフェラテの「歪みの補正」という説明は納得できなかった。何とも言えない欠落感は、「感情を削り取られた」というのが正しい。
碧はカフェラテにドッグフードを与えると、自身の朝食を作った。トーストにジャムを塗ったものとヨーグルト、そしてオレンジジュースだ。短時間でさっさと食べてしまった後は洗濯機をスタートさせる。
時間に余裕があるので、リビングに掃除機をかけた。カフェラテは寝室に逃げてしまった。
そろそろこの部屋にも掃除ロボットを導入しようか、と考えながら掃除機を動かしていた碧は、これから病院の敷地で起きるであろう揉め事に対する葛藤が自分の中から消え去っていることに気づいた。
これが、カフェラテの言う「思考パターンの歪みの補正」というやつの成果なのか。結論に至る思考の過程で起きる偏向を修正した結果が、この感覚なのか。
確かに気が楽になっていた。千恵からの依頼を受けて、千恵の家族に必要事項を伝達するだけだ。そこで反対されたのなら、碧の立場では千恵を強引に連れ帰ることはできないのだから引き下がるだけである。
何でこんなことに悩んでいたのか、自分でも不思議だった。こういう気分になるのであれば、カフェラテに思考をいじられるのも悪くないと思えてくるのであった。