第27話 千恵の一時帰宅(2)

文字数 2,457文字

 (あおい)は枝里子のただならぬ様子から、自分の発した言葉が周囲を混乱させたことを悟った。碧は千恵の病名をカフェラテから教えられたのであって、もともと千恵には隠匿(いんとく)されていたのだった。
 息子夫婦や病院関係者が黙っていたものを、第三者の碧が知っているということに枝里子が動揺したのは当然だった。

 このままでは不審に思われることになるだろう。しかし碧にはその誤解を解く手段が浮かばなかった。バレない嘘を考えるよりも、さっさと退散したほうが良さそうだった。

 碧は玄関を入らず、庭に回って今の正面の窓を軽く叩いた。カーテンが開かれ、中から枝里子がガラス戸を開けるのを待って、畳の上に座っている千恵に声を掛けた。

「千恵さん、カフェラテはいったん連れ帰ります」
 千恵が碧の方に顔を向けたが、その腕の中にカフェラテはいなかった。

「カフェラテはどうしたんですか?」
「洋介が連れて外に出て行きました」千恵が答えた。「カフェラテが自分から洋介に飛びついたのです。いつもは洋介のことをあんまり好きではないのに」

 千恵の顔にはカフェラテへの不満が(にじ)み出ているように碧には見えた。

 肝心の洋介は、碧が探しに行くまでもなくカフェラテを抱いて庭に歩いてきた。

「ここにいらっしゃったんですね」洋介は碧と同様に玄関先から庭に回ってきたようだった。碧は黙ってカフェラテを受け取る。
 それを見ていた千恵が「碧さん、今夜ここにカフェラテを連れてきてね。一緒に夕飯を食べましょう」と言った。

 瞬間、碧は返事に詰まる。そうしましょう、何を食べますかなどと明るく答えるのが躊躇(ためら)われるくらいに、周囲の空気は張りつめているのは自覚できていた。

 案の定、窓枠に寄りかかって立つ枝里子が、千恵を(なだ)めるように「お義母さん、勝手に決めないでね」と言った。

 千恵が何かを言いかけたが、碧は「じゃあ、また」とだけ言って千恵に手を振った。そして洋介と枝里子に矢継ぎ早に挨拶すると、早足で庭を出た。

 碧はマンションへと急ぎながら、自分が千恵の家族からどのように思われたのかが気になっていた。

「カフェラテ、私の対応はあれで良かったのかしら」
「目的はすべて達成できたではないか。ならば良かったということだろう」

 朝からの碧は、千恵の身体の心配はどこかに行ってしまって、ひたすら自分の行動を正当化し、「うまくやること」だけに一生懸命になっていたような気がする。

 こういう心持ちでいることが正しいのか、碧にはよく分からないが、ちょっと薄情ではないかという想いがあった。何しろ碧は病室で千恵に会ってから、今別れるまで、本人に向かって一度も「大丈夫ですか」の一言も発していないのだった。

 カフェラテには「心配しているのか」と聞いておきながら、自分自身が千恵の容態を実は心配していないのではないか、と思えてきて、碧は首の後ろから背中にかけてゾクゾクと震えがきた。

 マンションに戻ると、エントランス横の共用駐車場に雅也の車が停まっていた。

 碧の姿に気づいたのか、運転席のドアが開いて雅也が出てきた。先月の誕生日にプレゼントしたサッカースペインリーグのチームキャップを被り、白いTシャツを着た姿は碧の目には格好よく映った。
 碧はちょっとはにかんだ雅也の顔を見て急に安堵感が湧いてきて、自分もつい笑顔になった。直前の悪寒の反動が出て、どっと汗が噴き出てきた。

「預かっているというのは、その犬なのか」雅也は碧の前まで歩いてくると、帽子のつばを上げてカフェラテの顔を覗き込んだ。

「綺麗な犬だね。名前は何て言うの」
「カフェラテというのよ」

 雅也から綺麗と褒められた碧はちょっと誇らしくなって、犬の顔を雅也の正面に向けた。先程までの重苦しい気分がすっかり軽くなっていた。

「可愛いでしょう」
「そうだね」

 雅也はカフェラテの前足を(つま)み、上下に軽く揺さぶった。カフェラテは短く鳴き、足を持つ雅也に指を舐めた。

「おっ、喜んでいるのか」
「ちょっと待ってね。この犬を部屋に置いてくるから」碧は雅也に断ると、カフェラテを抱いたままエントランスに入った。

 エレベーターに乗ると、カフェラテが「あれが雅也なのだな」と聞いた。

「そうよ。私の恋人」
「碧の繁殖行動のペアということか」

 碧はぶっと吹き出した。

「あんたは本当に面白い言い方をするわね。でも、そういう言葉を私と千恵さんの語彙から選んで使っているのかと思うと恥ずかしくなるわ」

「雅也は帽子を被っていることを少し恥ずかしく感じていたようだったが」
「何? あんた、たったあれだけの時間で雅也の頭の中を調べたの?」

 碧は心に小さく棘を刺された気分になった。痛くはないが、疼く程度には不快だ。雅也の心の動きをカフェラテに調べられるのは嫌だった。

 碧は部屋に入ると身に着けているものを脱いだ。汗で濡れたものを着替えるつもりだった。カフェラテは勝手にエアコンのスイッチを入れると、「水が飲みたい」と言ってキッチンに歩いていった。

 碧は下着姿のままでキッチンに行くと、皿にペットボトルの水を注いで床に置いてやった。カフェラテはそれをぴちゃぴちゃと音を立てて飲み始めた。

「いい子にしているのよ」
 碧は寝室のクローゼットから出してきた新しいシャツを着た。慌てているので汗が乾かず、生地が引っかかってしまってすんなりと身体が入らなかった。

「どうしても私は部屋で留守番なのか」
 水を飲み終わったカフェラテが碧の足元に来て言った。

「千恵さんの家に置いておくわけにはいかないのよ。さっきのやり取りを聞いていたでしょう」
「せめて碧と一緒に行動できないかな」

「駄目に決まっているでしょう」碧はぴしゃりと言った。「今日は雅也と食事をしたりショッピングしたりするから駄目よ。だいたい雅也の前であんたと会話をすることはできないんだから」

 カフェラテは何も反論せず、黙って立っていた。

 服を着終わった碧は、カフェラテの食事用の皿にもう一度ペットボトルの水を注いで満水にすると、「留守番よろしくね」と言い残して部屋を出た。
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