第49話 病室での別れ(4)
文字数 2,462文字
脱力した人間ほど扱いにくいものはないと聞いたことがあるが、まさにそのとおりで、ぐんにゃりした千恵の上半身をベッドに乗せるだけで、碧は自分の身体エネルギーの半分以上を消費した気分になった。
放っておけば床にずり落ちてしまうので、休んでいる間は無かった。碧は千恵の腰に下から腕を回して、ベッドに持ち上げた。あまりの重さに、碧の口から声が漏れた。
千恵の両足をベッドに乗せると、碧は床に崩れ落ちて、背中を壁にぶつけた。一瞬息が止まったが、痛さはもはや感じなかった。
これからどうしたらいいのか、碧はまだ迷っていた。今すぐカフェラテを連れて部屋の外に出るのが最善のように思えたが、今度こそ意識を喪失したように見える千恵を一人残していくのが
せめて看護師に千恵の異変を伝えるべきではないか。
でも伝えたら帰りにくくなる。「体調が悪くなったみたいです」などと言い捨てて部屋を出て行くのでは、まるで見捨てていくように映るのではないかと碧には思えた。
迷っていると、夕食の時間を伝える放送が部屋のスピーカーから聞こえてきた。男性の声で、予定よりも遅れたことへの謝罪の言葉が添えられていた。あの黄色い光の騒ぎが原因なのに違いなかった。
碧は
どうしよう。碧は途方に暮れた。
今更ながら、宇宙に行く計画に加担したことが後悔されてきた。いくら折り合いが悪いと言っても母と子なのだ。ものを言わぬ状態になって、悲しまない息子がいるはずがない。
やめさせるべきだったか。だが時は戻らない。碧は必死に次にやるべきことを考えようとした。
容体悪化が明らかになれば、病院は家族に連絡を取るに違いない。家族が到着するまでは自分が残るべきなのか、碧は考え出した。自分は責任者ではないので残る必要はないと思うのだが、一度考え出してしまうと結論が出ないまま、頭の中での堂々巡りが始まった。
あなたのお母さんは大丈夫です。宇宙に行ったのです。
そう伝えることは絶対にできない。そうすると、この場に残ることは嘘を付くため、みたいに碧には思えてきた。
この時、カフェラテが鋭く吠えた。碧は床を
「ごめんね。もうちょっと待っていて」
もうカフェラテの中には精神体はいないのだ。この犬が騒ぎだしたら収拾が付かなくなる。碧はカフェラテがおとなしくしてくれることを祈るしかなかった。
碧はカフェラテを両腕で強く抱き締め、その頭に頬に押し付ける。廊下がにわかに騒がしくなってきた気配があった。早く決断しなければならなかった。
どうしよう。
でもここから先、私には千恵さんにしてやれることは無い。私の役割は終わったのだ。
唐突にそういう結論が頭を支配する。その途端、碧の中には今からなすべきことが見えてきた。まずは病院のスタッフに状況を早く伝えよう。そして自分はカフェラテを連れて退散しよう。それまで、もう少し頑張ろう。
碧はさっきまでの葛藤を忘れてしまったかのように、心が軽くなってきた。
碧はカフェラテの鼻先に口づけをすると、その身体をリュックの中に再び入れた。そしてゆっくりと背負うと、千恵の枕元に行ってナースコールを押した。
「篠崎さん、どうしました?」
「千恵さんの様子がおかしいんです。眠っているだけかと思ったんですが、呼びかけても返事がありません」
看護師からの問いかけに、碧はそう答えた。
間もなくやってきた看護師は、先程様子を見に来た人だった。千恵が外からの刺激に無反応であることが分かると、彼女は院内用の携帯電話で連絡を取った。
中年の医師が到着したのは二、三分後のことだった。医師は隣に立つ看護師に何やら指示を出しながら千恵の診察を始める。
しばらく様子を見ていると、別の看護師が器具を載せたワゴンを押して部屋に入ってきたので、碧はその看護師に自分が帰ることを伝えた。
「御家族の方ですか?」
「いいえ、篠崎さんの友人です」
「ちょっと待ってくださいね」看護師はそう答えると、診察をする医師のすぐ後ろに行って、小さな声で話を始めた。
やがて医師が振り返り、碧に「篠崎さんが返事をしなくなったのはどれくらい前?」と聞いてきた。
「ちょっと前です」
医師は碧の返事に聞き返すことはせず、また千恵の方に身体を向けた。質問はこれで終わりらしい。看護師が碧に「じゃあ」と言った。
碧は会釈をして部屋を出た。廊下には大きな金属製のワゴンが置かれており、三角巾を被った複数の女性が食事の載ったトレイを出して、病室に運んでいる。自分から食事を持ちに来る患者もいるようだ。その横を抜けて、碧はエレベーターに向かう。
食べ物の匂いにカフェラテが反応しそうで、エレベーターに乗り込むまでは緊張した。
通用口を出ると、碧はフードを被り直して駐車場に急いだ。早くカフェラテを解放してやりたかった。
ようやく駐車場まで戻ると、碧は後部シートの上にリュックサックを置き、中からカフェラテを出した。碧は犬が暴れることを半ば覚悟していたが、カフェラテは座席を下りてマットに座った。
「よく頑張ったね」
碧は声をかけると、運転席に乗り込んでエンジンをスタートさせる。今晩は何か御馳走をしてやろうと思った。自分も頑張ったが、カフェラテも頑張った。精神体が宇宙に戻っていき、地球に残されたのは碧とこの犬だけだ。これからは仲間だ。
そろそろ雨はやみそうで、フロントガラスに落ちてくる水滴が小さくなっていた。