第53話 弄ばれて気づいたこと(1)

文字数 2,538文字


 職場を一日休んだ(あおい)は、翌日には出社した。千恵の死を知らされた直後のショック状態は乗り越えたものの、あれから碧には食欲はなく、夜も眠ったり起きたりを短時間で繰り返していた。体調は悪いのだが、家にいてもそれが良くなる気がしなかった。

「碧さんの精神は、今日も何となく空の上、という感じですか?」
 ぼんやりしていたところを背後から芹那(せりな)にからかわれ、碧はぎくりとした。

「馬鹿ね、そういうのは上の空というのよ」愛未(まなみ)が芹那を睨みつけ、すぐにクスクス笑い出した。碧もつられる形で笑みを作る。

「レポート作りで疲れているんじゃないの。前にも言ったけど、あんなものは人事部では目を通さないわよ。適当にやっても全然OKなんだから」

「ありがとう。でも違うの」
 碧は預かっていた犬の飼い主が急逝したことを短く説明した。

「突然って、どんな病気だったんですか? それで犬はどうするんですか?」
 芹那の無邪気な質問に「ちょっと頭の整理がつかない」とだけ答え、碧は両頬を軽く叩く。睡眠不足のために全身に倦怠感があった。

 千恵の死の原因について、碧は昨日からずっといろいろな想像を巡らせていた。残された身体の体調悪化、精神分離手術の失敗、救助船の事故、そして肉体の異常行動に対する碧自身の応対ミス。
 地球人の受け入れを拒否した母艦のアミュターイシュ星人による処刑まで考えた。

 碧が考え着くのはせいぜいそれくらいで、もちろん彼女自身は答えを持っていない。

 救助船の事故やアミュターイシュ人たちのいざこざが原因であれば、カフェラテの中にいた精神体もただでは済むまい。
 千恵の死を想うと、あの宇宙人の死も考えてしまう。

 気が付けば碧は目頭が熱くなり、涙が頬を伝うのを感じた。慌ててハンカチで拭っていると、愛未も芹那も何も言わなくなった。

 昼休み時間になるのを待って、碧は誰に遠慮することなく自分の席で眠った。昼食は野菜ジュースだけだった。身体は空腹に悲鳴を上げている。だが食べ物を見るだけで胸やけがしてくる。夜は眠れないのに、会社にいる今は目を開けているのが辛い。

 碧が熟睡中、雅也が顔を見せたと後で聞いた。昨夜からLINEの返事が来なかったので心配して様子を見に来たらしい。机の上に組んだ腕に顔を沈めて眠っている碧を見て、雅也は少なからず驚いたそうだ。
 しかもそんなことが二日続けてのことだと聞かされた雅也は、「レポート頑張れ」と書いた付箋を手紙代わりに残していったと愛未が言った。

 その付箋は卓上電話の受話器に貼られていた。午後の始業開始の寸前に目を覚ました碧は、その子どもっぽさに呆れながらも、嬉しさで顔が少しのぼせた。

 それからの碧は、芹那からもらったドーナツ一個で午後の仕事を凌いだ。手元にある未処理の経理書類の束の減りは悪かったが、それでも上の空で仕事をしていないように見せることには気を遣った。

 午後五時前に雅也からLINEで「夕飯を御馳走しようか」というメッセージが届いた。碧は文字を読んだ一瞬だけ誘いに乗る気になったが、すぐにそれを打ち消した。今夜は千恵の通夜式に参列するつもりだったのだ。

 就業時間の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、碧はパソコンの電源を落とし、更衣室へと急いだ。いったん帰宅して礼服に着替えてから、カフェラテを連れて会場へ行くことにしていたので、あまり時間に余裕はない。

 支度を終えて更衣室を出ると、廊下ですれ違った愛未たちに挨拶をしてエレベーターホールへと向かう。そこにバタバタと足音を立てて雅也が走ってきた。

 目の前まで一気に詰めてきた雅也の顔が強張っていたので、てっきりさっき送った「今夜は予定あり」というメッセージが説明不足だったか、と反省した碧は「ごめんね」と話しかける。

「謝らなくてもいいよ」雅也はコンビニ袋を持った手を腰に当て、空いた手で頭を掻いた。
「この間の犬の飼い主が亡くなったんだってな」
「あっ、聞いたんだね」

 雅也に話をしたのは愛未か芹那か。きっと彼が昼休みに様子を見に来たときのことだろう。
「うん。雅也がせっかく誘ってくれたのに、これから通夜式だから行かなくちゃならない」

 もう一度「ごめんね」と謝り、エレベーターの回数表示を見ようとした碧は、雅也から肩を押され、ホールの窓際に連れていかれた。

「ここんとこ、まともに食事をしていないんでしょ?」
「あっ、食べているけど」
「嘘を言わなくていいよ」雅也は手に持っているコンビニ袋を碧に突き出した。
「まあ、知り合いが亡くなってショックだと思うけど、元気を出せよ。これを持って行けよ」

 碧が袋の中を見ると、菓子パンと栄養補給食品と呼ばれるチョコレートバーがいくつか入っている。思わず雅也の顔を見た。

「これなら移動中でも食べることができるだろう」
 碧は雅也の気遣いに胸が熱くなったが、彼の次の一言でその熱が一気に冷めた。

「昼休み、碧のところに行ったら吉野さんから栄養になりそうなものを差し入れしたらどうかとアドバイスされたんだよ」

 碧はコンビニ袋を両手で広げて持ったまま、顔を上げた。
「愛未に言われて買ってきたの?」
「買いに行っている暇がないと言ったら、吉野さんが代わりに買ってきてくれたんだ」

 ではこれは愛未が買ってきたものなのか、と理解した途端、碧の中で雅也へのありがたみが半減した。

 黙っていればいいものを、なぜそんな裏話をペラペラと喋ってしまうのだろうか。碧は唖然として目の前のカレシの顔を見たが、屈託ない笑顔を返されて言葉を失った。
 ポカンとしたままの碧の背後でエレベーターが開いた。雅也は碧に小さく手を振ると、廊下を走っていった。

 要するに、これは愛未の差し入れということだ。雅也は配達担当だったのだ。

 エレベーターに乗り込んだ碧は、腹の奥からせり上がってくる不快の念を鎮めることができずに苛立った。
 いっそのこと床に投げつけてやれば落ち着くかもしれないと思い、一度はコンビニ袋を頭の上に振り被ったものの、雅也にも愛未にも悪意はないのだ、と思い直して耐えた。

 駅からの帰り道、千恵の家の横を通ると、客間に明かりが灯っていた。親族は全員、通夜式の会場に行っているはずだが、誰かが留守番をしていると思われた。
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