第19話 雅也との夕食(4)

文字数 2,946文字

 そろそろ席を立つタイミングかな、と思ってレシートに手を伸ばしかけた時だった。(あおい)は雅也と目が合った。彼の綺麗な瞳が右に行って、左に行って、下に落ちた。

「今度、秋物のセーターを見に行こうと思ってさ」
 ようやく雅也から話題が出てきた。「ついでにパンツも見たいんだ。少し太ったみたいで、ウエストがきつい」

「どこに見に行くつもりなの」
 雅也は郊外の大型ショッピングモールの名前を出した。
「今度の土日のどちらかで行こうと思っているけれど、碧も行くか?」

「いいわ」とりあえず、断る理由はなかった。
「じゃあさ、その帰りに隣で遊んでいこうよ」雅也は顔をほころばせて言った。隣とはショッピングモールに隣接するアミューズメントパークのことだろう。そう言えば雅也はコインゲームが好きだった。碧はそのくらいは彼氏へのサービスだなと思い承諾した。

 その後は雅也がこの一週間に身の回りで起きたことを一方的に語り、それに碧が相槌を打つという、いつものペースで会話が弾んだ。饒舌(じょうぜつ)な時の雅也の話は、碧には楽しい。

 だが、せっかくの楽しいひと時はレストランを出るところで終了した。碧が一人で帰ろうとしたところ、雅也が不満を(あら)わにしたからだ。

「どうしてもマンションに行ったら駄目なのかよ」
「だから、ペットの世話というものは大変なの」
 話は二十分ほど前にループして、またぐるぐると空転した。

 折れない碧に呆れた雅也は、これから友達と会うと言って、繁華街の人ごみの中に早足で溶けて消えた。その背中が視界から消えるまで見送ってから、碧は踵を返して駅のホームへと急ぐ。
 最後の最後に雅也の機嫌を損ねたことに後悔が残ったが、以前ほどそれは重くなく、湿り気もなかった。風が吹けばさらさらと舞い散ってしまうような乾いた感情を、碧自身も持て余してしまい、首を傾げた。

 その一方で、カフェラテが篠崎邸の庭で待っていることを思うと、知らず知らずに碧の足は早まるのだ。

 はたして篠崎邸では、カフェラテが犬小屋の屋根の上に座っていた。彼女が自転車を停めて手を振ると、カフェラテは芝生に降り、ブロック塀まで走ってくるとジャンプしてその上に登った。碧はカフェラテを両手で抱え、自転車の前かごに入れて走り出す。

「待った?」
「いや、私も出掛けていて、さっき戻ったばかりだ。」

 まるで恋人同士が待ち合わせをした時の台詞みたいだな、と碧は思った。篠崎邸の庭にいるはずのカフェラテがどこに出掛けていたのかがちょっとだけ気にかかったが、碧は聞こえなかったことにした。

 カフェラテを預かってから四日が経っていた。

 碧は精神体とカフェラテの扱いについて話し合い、夜間だけマンションの部屋に預かることにして、彼女が出勤中は外で自由にさせることに決めた。だが自由といっても勝手に近隣を徘徊(はいかい)されたのでは問題になりそうなので、その活動場所は篠崎邸の庭である。
 毎朝のジョギング時に碧がカフェラテを篠崎邸に連れて行って庭に放ち、仕事からの帰りに迎えに寄るのであった。

 碧はカフェラテが一日中、篠崎邸の敷地内でおとなしく過ごすとは思っていなかったが、案の定、日中は密かにどこかに出掛けているようだ。それを碧に隠そうともしない。

 ただし、どこに出掛けているのかは、碧が聞いても答えようとはしなかった。放し飼いで近所をうろついているところを見つかったらどうしよう、と碧の心中は穏やかではないが、カフェラテはどこ吹く風といった態度だった。

 日曜日の午後、家族の車で病院へと出発する千恵を篠崎邸の玄関先で見送った後、碧はそのままカフェラテをマンションに連れ帰った。ペットを飼ったことがないので、何をやっていいのかが分からないことだらけだったが、幸い、当事者の犬から直接レクチャーを受けられたため、すぐに段取りを習得できた。

 一方のカフェラテも室内の設備と碧の行動手順が分かると、彼女に頼らずにいろいろとやるようになった。

 今夜も碧が寝室でTシャツと短パンに着替えている間に、リビングではカフェラテがペット用の皿を用意していた。エアコンのスイッチも入れてあるようだ。碧は玄関横の収納庫からドッグフードを持ってきて、皿にあけてやる。カフェラテは「ではいただく」と言ってドッグフードを食べ始めた。

 食事の挨拶をする犬は世界中でカフェラテただ一匹だと思うと、碧はおかしかった。

 碧は洗面所で化粧を落とすと、キッチンの冷蔵庫から缶ビールとミネラルウォーターのペットボトルを一本ずつ持ってリビングに戻る。そして空になったペットフードの皿に、ミネラルウォーターを注いでやった。自身がビールを飲むので、カフェラテにもサービスのつもりでミネラルウォーターなのであった。

「くたびれた」缶ビールを一口、二口、喉に流し込んでから碧は呟いた。雅也との夕食は苦行とまでは言わないが、何かの鍛錬をしているような気分にさせられた。

 水を飲んでいたカフェラテが、ソファーを背もたれにして座り込んでいる碧の横に来て、膝の上に乗った。そして「雅也とはあまり楽しい時間にならなかったようだね」と言った。

「その原因はあんたでしょう」
 碧はカフェラテの頭を軽く叩く。雅也との会話がうわべだけの退屈なものになってしまった原因は、彼に対する意識をいじられた影響だと疑っていた。感情の偏向とやらを補正されたため、彼に対する思いの振幅が小さくなり、相手の気持ちを汲むということができなくなったからだと碧は考えたのだ。

「人の心を(もてあそ)んだことを、私は許してはいないからね」
「弄ぶという言葉とは違うな」カフェラテは反論した。「碧が物事を判断するのに、邪魔となる要素を削ったのだから、改善したという方が正しい」

「改善ですって?」碧は呆れ、ビールが気道に入ったせいで咳き込んだ。「まさか宇宙人に心の中を改善されたことを感謝しろだなんて言わないわよね」

 碧はカフェラテの理屈に納得はできないが、さりとて怒る気にはならなかった。独特の言い回しが面白く、会話が楽しいからである。

「ねえ宇宙人。あんたたちにはオスとメスの区別がないと言っていたわね」
「碧の世界で言うところの有性での生殖はしていないということだ。私たちは現個体を複製することで個体数を維持している」

「それでは複製の複製の複製の、さらに複製が生き続けているということ?」
「まあ、そういうことになるな」

「つまらないわね」碧はまた一口ビールを飲みこんだ。カフェラテは碧の身体から離れると、ソファーの上に寝転んだ。

「つまらないという言葉で評されても何とも困るな。私たちの世界でも文明の維持のために社会機構は存在し、生産活動も行われている。この星と同じだよ」

「そういうことではなくてね」碧は詩を朗読するような調子で言葉を出した。「男と女。異なる性による出会いと別れ。そこから派生する愛や憎しみ。そういうものが宇宙人の星にはないのだろうか」

 最後に笑い出した碧に、カフェラテは「感情はあるよ」と答えた。
「だが、生じた感情の起伏を収めるために必ず合理的な解決策が用意されるものだ。それが分かっているから、誰も動揺はしない」

「よく分からないなあ」碧は言った。具体例のないカフェラテの説明は、碧には理解が難しいのだった。
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