第17話 雅也との夕食(2)
文字数 2,281文字
午後六時。二人は会社から電車で一駅離れた繁華街の所業ビル内にあるファミリーレストランで落ち合った。以前雅也が行きたがっていたスペイン料理店が第一候補だったが、満席で予約が取れなかったのだ。
店に入るまでは分からなかったが、向かい合わせに座って雅也の顔を正面からまじまじと見ると、碧 は彼の機嫌がそれほど良くないことに気づいた。どうやら店の選択に不満があるらしい。
「スペイン料理が駄目だったのなら、いつもの居酒屋でも良かったんだよね」メニューを眺めながら雅也は言った。「俺、昼間も出先でファミレスだったんだぜ。一日二回もハンバーグなんて食べられるかよ」
「だったらパスタにする?」
「そういうことじゃないけどな」雅也は苦笑した。「ちょっと雰囲気がない」
居酒屋でも良かったと言う雅也にとっての雰囲気というものが理解できない碧だったが、その説明を求めても雅也の機嫌が良くなりそうな気がしなかったので諦め、さっさと自分が注文するものを決めた。
「碧は今、何が忙しいんだよ」テーブルのタブレットでの注文を終えると、雅也が聞いてきた。「残業をしているわけでもなく、毎日定時退社しているもんな。会社を出てから何をやっているんだよ」
「ちょっとね」
「ちょっとって、何だよ」
午後の仕事中、碧はずっと雅也にどこまで説明するかで悩んでいた。カフェラテの中身については、当分は内緒にしておくことに決めていたからだ。
では、現状をどこまで話すか。何も触れずにこの一週間の行動を説明するのは難しいと思われた。そう判断した碧が出した結論は、「知り合いから預かっているペットの世話をしていた」という話だった。これは嘘ではない。
「ペットって、猫かよ」
「犬」
「種類は?」
「知らないけど、雑種だと聞いているわ」
「碧がペットを飼うなんて似合わねえ」雅也はくくくっと馬鹿にした感じで笑った。「その犬の画像があるのなら見せてよ」
「撮ってないよ」碧は答えた。「私のペットじゃなくて預かっているだけだから」
雅也は「ふーん」と漏らしながら小さく頷くと、意味ありげな笑顔を見せた。
「その犬、碧のマンションにいるんだろ。見たいよ」
「何で?」碧は動揺した。これまでの付き合いの中で動物に興味を示したことがない雅也が、碧が預かっているだけの犬を見たがるとは思ってもみなかった。
「雅也には関係のない犬だよ」
「碧が預かって世話をしているんだろう。関係ないってことはないんじゃないの」
「いえいえ、大丈夫よ」碧は顔の前で手を振ってみせた。「雅也が心配することじゃない。私はちゃんと世話をしているから」
今度は雅也が驚いたような顔をした。「どうして見に行きたいと言っているのを『心配するな』で返してくるのかな」
碧はどう切り返せばいいのか、必死で考えた。
「雅也はどうして犬のことが気にかかるのかな」
碧は恐る恐る聞いてみた。
「それは碧が預かって世話しているからだろう」
雅也は答えた。「それに、このところ碧のマンションに行っていない。碧の部屋で一緒にお酒を飲んだっていいだろう」
ああ、そういうことか。碧は合点がいった。雅也は犬を口実にして、私と夜を過ごしたいのだ。
だが碧にはマンションに雅也を連れていく選択肢はなかった。カフェラテを前にして、雅也と一晩を過ごすことを想像すると、ぞわぞわと背筋に鳥肌が立った。
「世話をするのが大変なの」
碧は雅也を刺激しないように注意を払いながら静かに言った。
「例えば毎晩、シャワーをしてあげて全身を濯いでやるの。全身を乾かすのにどれくらい時間がかかるか分かる?」
「今夜は俺がシャワーをしてやるよ」
「結構よ」碧は笑顔を作ってから答えたが、雅也は眉間に皺 を寄せた。
「ひょっとして、俺は拒否 られている?」
「そういうことじゃないけど、預かっている犬のことは私だけの問題だから、雅也が気にかけることじゃないのよ」
「いや、だからどうして『気にかけることじゃない』という話になってくるのかな」
二人の前に注文した食事が届いた頃には、すっかり会話はなくなっていた。雅也はテーブルに頬杖をついて窓の外を見ていたし、碧は天井の照明を見ながら、今夜のデートが二人にとってプラスになっているのかを考えていた。
一応、自分から誘って食事の機会を持ったのだから、無視しているという誤解は解けたものと思いたい。それで今夜の目的は達せされたはずなのだが、それにしても、このつまらなさは何なのだ。
誤解が解ければ、それでいいのか。目的は達せされたと満足する話なのか。好きな者同士が会うのに、そんな理屈だけでいいとは思えず、碧は次第に焦ってきた。
このままでは二人はだんまりを続け、つまらなかったという感想だけを持ち帰ってデートは終了だ。雅也から話がないのであれば、こちらから話をしてみるか。
「実は、知り合いの人が入院していてね。近いうちに手術するかも知れないの」
「何の病気なの」フォークを突き刺した肉を口に運んでいた雅也が、目線だけを碧に向けて聞いた。
「神経膠腫 という脳の病気なの」
「やばいじゃん。助かるの?」
「そんなの分からないわ。でも心配している」
会話が途切れ、雅也がスマホをいじり出した。碧はてっきり病気のことを調べているのかと思ったが、雅也は「何、馬鹿じゃん」などと呟 いて笑い出した。どうやら友達のインスタグラムをチェックしているらしい。碧はがっかりして天井を見上げた。
「誰のインスタを観ているの?」
気を取り直し、何とか話題を作ろうと碧は質問したが、雅也は一言、「いろいろ」とだけ答え、碧の顔を見ようともしなかった。
店に入るまでは分からなかったが、向かい合わせに座って雅也の顔を正面からまじまじと見ると、
「スペイン料理が駄目だったのなら、いつもの居酒屋でも良かったんだよね」メニューを眺めながら雅也は言った。「俺、昼間も出先でファミレスだったんだぜ。一日二回もハンバーグなんて食べられるかよ」
「だったらパスタにする?」
「そういうことじゃないけどな」雅也は苦笑した。「ちょっと雰囲気がない」
居酒屋でも良かったと言う雅也にとっての雰囲気というものが理解できない碧だったが、その説明を求めても雅也の機嫌が良くなりそうな気がしなかったので諦め、さっさと自分が注文するものを決めた。
「碧は今、何が忙しいんだよ」テーブルのタブレットでの注文を終えると、雅也が聞いてきた。「残業をしているわけでもなく、毎日定時退社しているもんな。会社を出てから何をやっているんだよ」
「ちょっとね」
「ちょっとって、何だよ」
午後の仕事中、碧はずっと雅也にどこまで説明するかで悩んでいた。カフェラテの中身については、当分は内緒にしておくことに決めていたからだ。
では、現状をどこまで話すか。何も触れずにこの一週間の行動を説明するのは難しいと思われた。そう判断した碧が出した結論は、「知り合いから預かっているペットの世話をしていた」という話だった。これは嘘ではない。
「ペットって、猫かよ」
「犬」
「種類は?」
「知らないけど、雑種だと聞いているわ」
「碧がペットを飼うなんて似合わねえ」雅也はくくくっと馬鹿にした感じで笑った。「その犬の画像があるのなら見せてよ」
「撮ってないよ」碧は答えた。「私のペットじゃなくて預かっているだけだから」
雅也は「ふーん」と漏らしながら小さく頷くと、意味ありげな笑顔を見せた。
「その犬、碧のマンションにいるんだろ。見たいよ」
「何で?」碧は動揺した。これまでの付き合いの中で動物に興味を示したことがない雅也が、碧が預かっているだけの犬を見たがるとは思ってもみなかった。
「雅也には関係のない犬だよ」
「碧が預かって世話をしているんだろう。関係ないってことはないんじゃないの」
「いえいえ、大丈夫よ」碧は顔の前で手を振ってみせた。「雅也が心配することじゃない。私はちゃんと世話をしているから」
今度は雅也が驚いたような顔をした。「どうして見に行きたいと言っているのを『心配するな』で返してくるのかな」
碧はどう切り返せばいいのか、必死で考えた。
「雅也はどうして犬のことが気にかかるのかな」
碧は恐る恐る聞いてみた。
「それは碧が預かって世話しているからだろう」
雅也は答えた。「それに、このところ碧のマンションに行っていない。碧の部屋で一緒にお酒を飲んだっていいだろう」
ああ、そういうことか。碧は合点がいった。雅也は犬を口実にして、私と夜を過ごしたいのだ。
だが碧にはマンションに雅也を連れていく選択肢はなかった。カフェラテを前にして、雅也と一晩を過ごすことを想像すると、ぞわぞわと背筋に鳥肌が立った。
「世話をするのが大変なの」
碧は雅也を刺激しないように注意を払いながら静かに言った。
「例えば毎晩、シャワーをしてあげて全身を濯いでやるの。全身を乾かすのにどれくらい時間がかかるか分かる?」
「今夜は俺がシャワーをしてやるよ」
「結構よ」碧は笑顔を作ってから答えたが、雅也は眉間に
「ひょっとして、俺は
「そういうことじゃないけど、預かっている犬のことは私だけの問題だから、雅也が気にかけることじゃないのよ」
「いや、だからどうして『気にかけることじゃない』という話になってくるのかな」
二人の前に注文した食事が届いた頃には、すっかり会話はなくなっていた。雅也はテーブルに頬杖をついて窓の外を見ていたし、碧は天井の照明を見ながら、今夜のデートが二人にとってプラスになっているのかを考えていた。
一応、自分から誘って食事の機会を持ったのだから、無視しているという誤解は解けたものと思いたい。それで今夜の目的は達せされたはずなのだが、それにしても、このつまらなさは何なのだ。
誤解が解ければ、それでいいのか。目的は達せされたと満足する話なのか。好きな者同士が会うのに、そんな理屈だけでいいとは思えず、碧は次第に焦ってきた。
このままでは二人はだんまりを続け、つまらなかったという感想だけを持ち帰ってデートは終了だ。雅也から話がないのであれば、こちらから話をしてみるか。
「実は、知り合いの人が入院していてね。近いうちに手術するかも知れないの」
「何の病気なの」フォークを突き刺した肉を口に運んでいた雅也が、目線だけを碧に向けて聞いた。
「
「やばいじゃん。助かるの?」
「そんなの分からないわ。でも心配している」
会話が途切れ、雅也がスマホをいじり出した。碧はてっきり病気のことを調べているのかと思ったが、雅也は「何、馬鹿じゃん」などと
「誰のインスタを観ているの?」
気を取り直し、何とか話題を作ろうと碧は質問したが、雅也は一言、「いろいろ」とだけ答え、碧の顔を見ようともしなかった。