第55話 カフェラテの告白(1)

文字数 2,544文字


 カフェラテは足を止めると、ゆっくり振り返った。尻尾は下に垂れ、黒い瞳がじっと(あおい)を見ている。

 碧は自分がソファーに座ると、静止した状態の犬に向かって、ローテーブルの前のクッションを指さした。
「ここに座りなさいよ。あなたのお気に入りでしょう」

 それからお互いが何も言わず動かずに一分ほどが過ぎた。やがてカフェラテの口から「やはり碧に気づかれてしまったな」という言葉が漏れた。

 碧は確信していたものの、いざカフェラテが言葉を話すのを見てやりきれない思いに駆られた。無性に目の前のテーブルの足を蹴りたくなった。

 カフェラテは一歩一歩を確認するような歩きかたで碧に近づくと、クッションに身体を落ち着けた。
「私はこういうことには経験がないのだ」

「あなたの言う経験とは、私を(あざむ)いたことを指している?」
 碧はソファーの上に胡坐をかくと、膝に両手を乗せてカフェラテを見据えた。

 碧がカフェラテの中に精神体が残っていることを疑うようになったのは、千恵が意識を失った後、病室を出て行くかどうかで悩んだ時の自身の気持ちの動きだった。カフェラテを抱いた瞬間から急に頭の中が整理され、碧は合理的な行動を取ることができた。

 あれは千恵の家族に対する配慮や遠慮、そして周りから自分がどのように思われるのかを懸念する感情が途中から削り取られたからではないかと碧は考えた

 カフェラテからしばしばやられた感情の偏向の補正というやつだ。

 それに、犬に戻ったはずのカフェラテが、まるで碧の考えていることが分かっているかのように絶妙なタイミングで吠えるのも不思議だった。碧が(きゅう)した時、カフェラテの鳴き声がきっかけになって物事が進んだ。
 そんな偶然が何回も起きれば、さすがにおかしいと気づく。

 おかしなことは他にもあった。それは犬のカフェラテが散歩中でも部屋の中でも碧の前でまったく用を足さないことだった。生物である以上、あり得ない話だった。

「この部屋のトイレを使っていたんでしょう」と碧が聞くと、カフェラテは頷き、「碧がカフェラテを預かるときに一番心配していたことだったから」と答えた。

 気を遣ってくれていたらしい。碧は鼻で笑った。そんな気遣いをすればいずれ自分が宇宙に戻っていないことがバレるとは思わなかったのか。いや、それくらいではバレないと考えたのか。

 馬鹿にされている、と碧は腹立たしい思いだった。
「それと、もう一つあるのよ」碧は続ける。

「千恵さんが死んだことを知った時、私は自分の感情のコントロールができなくなった。あのとき、犬のカフェラテが私を慰めてくれたの。そうしたらまるで魔法にかかったように、気持ちがすっきりした。あれもあんたの仕業だったんでしょうね」

「そうだよ。碧が助けを求めていたからね」
 カフェラテは黒い瞳で碧の目を見据えながら答える。ちょっとやそっとでは許すわけにいかないという態度で臨んでいる碧だが、精神体のこの発言には心が激しく揺さぶられた。

 怒鳴りつけたいくらいの(いきどお)りを心中に(たた)えていたはずなのに、と碧は悔しい気分になる。今の碧は精神体が宇宙に還らずにカフェラテの中に残っていることが分かり、飛び跳ねたいくらいの嬉しさが全身を駆け巡っていた。

 でも喜んでいることをこいつに知られたくない。いずれ心の中を覗かれれば知られてしまうけど、少なくとも千恵の死の理由について説明を受けない限り、今は笑顔になってはいけないと誓った。

 碧は身を乗り出し、カフェラテの顔に自分の顔を近づけると「私は、あんたに、騙されていたことに、とても、怒っている」と一語一語を確認するようにゆっくり喋った。

「何も隠さずに私に全部説明しなさいよ。千恵さんが死んでしまったこと。あんたが救助船に乗らずに今もカフェラテの中にいること。そして私に内緒にしていたこと」

 碧は横に置いてあったカーディガンを掴むと、横に払うようにしてカフェラテの頭を叩く。
 カフェラテは姿勢を崩してクッションから落ちた。

「こういうことになったのは、積み重ねた検討とその結果があるわけだが」カフェラテは起き上がってソファーに飛び乗ると、碧の隣に座って話し始めた。

「最初に、碧の怒りに対して謝ることにする」
 カフェラテは謝罪の言葉から始めた。

「精神体の分離後、千恵の生命活動が早く停止する可能性については、事前に予想できなかったわけではないが、極めて小さいと考えていた」

 少なくとも、千恵に精神体への分離と宇宙旅行を誘った時点では、千恵の肉体は一定期間は活動を維持できるはずと考えていた、とカフェラテは言った。
 ではなぜそれができなかったのか。それは分離後の精神体が肉体を離れて活動を維持していくためのエネルギーが、千恵の場合は極端に弱かったと結論付けられるという。

「私が短い期間で調査した範囲では、地球の、この地域に住む人間はこのエネルギーの規定値がもともと弱かった。それは碧、君にも当てはまる」

 エネルギーとは、カフェラテが碧に分かる言葉で表現したもので、個の生物として他に依存せずに生命活動を維持するための強い力だという。

「精神体になれば、拠りどころは自身の思考力と意志力だけだ。他者に依存しなければならない者は早いうちに思考停止に陥り、消失することもあるのだ」

 カフェラテは言った。そして、結局のところ千恵の精神は自身だけで支えることができなかった可能性が高い、と説明した。

 カフェラテの見立てでは、地球人は他者との関係の中で精神を維持しているのだという。他者との間で精神は高揚し、安定し、発達し、強くなる。
 アミュターイシュ星人は他者に自我の発達を依存していないが、地球人は違うようだな、とカフェラテは言った。地球人は弱いと言われているようだった。

「私が宇宙に誘った時、千恵は精神体に分離することに前向きだった。ところが肉体を家族に委ねて精神が外に出て行くことを知って、かなり動揺を見せた」

 その動揺はカフェラテが碧にやったように感情を補正すれば解決したはずだった。だが千恵には効かなかった。

「それは、特定の個体に対する偏向ではなく、依存だったからだ」
 つまり、千恵は他者との何らかの関係性の中で自分の精神を維持するエネルギーを生産していたのだという。
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