第40話 千恵の夜話(1)

文字数 2,208文字


 その夜は、午後十一時過ぎに寝床についた。普段の千恵は寝室のベッドで寝ているが、この日は和室に布団を二組敷いて、(あおい)と枕を並べた。

 カフェラテは二人と一緒に寝ようとはしなかった。碧は千恵の寝室にあるカフェラテ専用ベッドを運んでこようかと提案したが、カフェラテは「碧が一緒なら私がいなくても大丈夫だろう。私は千恵の寝室に行くよ」と言い残して部屋から出て行った。

「地球にいるのは、あと三日なのかと思うと不思議な気分」
 部屋の電気を消して布団にもぐり込んだ千恵は大きく息を吐いてから言った。「地球から出て行くなんて、これまでの人生で考えもしなかった」

「それは、そうでしょうね」
 和室と広縁を(へだ)てている障子は開けたままだった。広縁から庭へと通じる窓のカーテンの隙間から入ってくる月明かりで、碧には千恵の顔がうっすらと見えた。

「地球でのやり残しはありませんか」
「沢山ありますよ」千恵は即答した。
「誰でもそうでしょう。一度きりの人生の中で、やりたいことが全部できた人なんていないと思います。私も今となっては後悔ばかり」

 碧はそういうことを聞いたつもりではなかった。残り三日でできそうなことを、外出の際の忘れ物の確認をするような感覚で聞いただけだった。だが、千恵はここから長い話を始めた。

「碧さん、あなたには私が昔中学校の教師をしていたことを話したことがあったかしら」
「いいえ、初めて聞きました」
「私、短い期間ですけど中学校で社会科を教えていたんです」

 千恵の話では、彼女は東京の私立大学で歴史学を学び、教員免許を取得すると地元に戻って中学の教員を五年ほど勤めていたのだという。

「父がその学園の理事をしていましたので、その縁で採用してもらいました」
 千恵が教壇に立っていたという私立中学は、大学と高校も有する学校法人の付属中学で、地元ではない碧もその名前を知っていた。

「私は歴史が好きでした。子どもの頃の夢は、将来は歴史学者になって世界の遺跡を調べることでした」
「それで教員になられたんですか」

 千恵の笑い声が聞こえた。
「親の反対を押し切って中国史を勉強できる大学に進学はしましたけど、そこまででしたね。私のレベルでは大学に残ることもできないし、歴史学では就職も難しくてね。見かねて父が学園にお願いしてくれたんです。あの頃は毎年子どもの数が増えていましたからね。先生になる人が多かった」
 周りの友人たちに誘われて教職課程の単位を履修しておいたことが役立った、と千恵は言った。

「でも、変な話ですけど私自身は教員を天職だと思っていました。だって、自分に向いている気がしたんです。子どもたちと一緒に新しいことにチャレンジすることに生きがいを感じましたから」

 教員になって三年目には生徒を誘って郷土史研究会という同好会を立ち上げ、同じ地域の複数の中学校と連携した活動を主宰したという。翌年には学校から正式な部活動として認められ、顧問に就任した。千恵にとって教諭時代の一番輝いていた思い出だった。

 だが、千恵は結婚を理由に退職した。二十九歳の時だった。
「夫とは見合い結婚をしたのですが、仕事を辞めることが条件でした。私は本当に嫌でしたけど、両親から強く言われたのを反論できませんでした」

 今なら共稼ぎなんて普通のことなのに、と千恵は零す。
「どうやら両親には、私がどれだけ情熱をかけて教員をやっているのかが伝わっていなかったのでしょうね。休日には研究会の子どもたちを家に呼んで、発表原稿づくりをしていたのを見ていたくせに。あの活動は、市の社会教育活動に貢献したと評価されて表彰されたんですよ。悔しい気持ちもあったので、実家を出るときに使っていた教科書を庭で全て燃やしてやりました」

「――その郷土史研究には、その後は関わらなかったんですか?」
 碧が()くと、千恵は「もちろんです」と答えた。
「だって、もう関係が無くなりましたから」

 そういうものなのか。碧は少しもやもやしたものが胸に渦巻いたが、千恵の話はどんどん.進んでいく。
結婚の相手は商社に勤めるサラリーマンだった。転勤が多かったが、そのほとんどは単身赴任だったため、千恵は夫の実家で彼の両親と暮らした。

「それがこの家です」
 結婚後は一度も教壇に立つ機会はなかった。夫もその両親も悪い人たちではなかったが、千恵が働くことには反対だったという。

「夫の父親も当時は銀行に勤めていました。結構偉い役職だったと思います。そういう家庭では、嫁が働きに出ることで経済的な理由があると思われるのが嫌だったみたいです」

 千恵は身体を碧の方に向けた。
「私、夫に噓を付かれたんです」

 夫は結婚前に、千恵を海外旅行に連れていくことを約束した。歴史を学んだ千恵が行ってみたいと思っていた万里の長城、ピラミッド、アッピア街道、イマーム広場、イースター島などを、毎年一つを選んで旅行しようと言っていたそうだ。
 千恵はその話を全面的に信じたわけではなく、他愛のない冗談だと受け止めていたが、「まさかどこにも連れて行ってもらえないとは思っていなかった」と笑った。

「こうなると詐欺だと思いませんか、碧さん。決してお金がなかったわけではないのですよ。だって、夫は週末になればゴルフ三昧でしたからね」
 休日も夫は出かけてばかりだったので、家のことは全部私が一人でやったの、と言う千恵の言葉には苦々しいものが含まれているように思えた。
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