第3話 千恵さんと犬(2)

文字数 2,879文字

 (あおい)がカフェラテと初めて出会ったのは二年前の秋のことだった。仕事帰りの碧が駅からマンションに向かって自転車を漕いでいると、道路沿いの住宅の庭で子犬と戯れている老女の姿が目に入った。

 住宅の敷地の北側には築年数が相当古そうな日本家屋があり、南側には綺麗に手入れされた庭が広がっている。転居して間もない頃、碧は出勤途中にその庭を見て、芝の鮮やかさに思わずペダルを漕ぐ足を止めたことがあった。

 それ以来、碧は通勤で横を通るたびに庭の維持管理費だとか持ち主の職業などを想像してしまうことがあった。

 思い返せば碧と千恵(ちえ)の初体面は、カフェラテと同じタイミングだったことになる。

 自転車を停めて塀越しに庭を覗き込んでいた碧は、偶然に老女と目が合った。気まずくなった碧は会釈(えしゃく)だけして通り過ぎようと思ったが、何となく決まりが悪かったので、「可愛いですね」と子犬を褒めた。

「もう、馴れなくて大変なんです」老女は両掌を上に広げ、いかにも途方に暮れていると言った仕草を見せた。

 犬は芝生の上を激しく転がっていた。起き上がると高く跳ね、そしてまた転がる。そうした行為が遊んでいる仕草なのか、単に興奮しているだけなのか、碧には分からなかった。

「良かったら、裏から庭に入っていらっしゃい」
 碧が通勤で通る道はこの家の西側に接しているが、こちら側には玄関アプローチはない。碧が塀に沿って後方に目をやると、人が出入りできる幅の通用口があった。
 後で知ったことだが、この家の玄関は東側の道路側にあり、碧が立っている場所からでは、近所の生活道路をぐるっと一周しなければならなかった。老女が「裏から」と言ったのは、そういう事情を理解しての配慮なのかも知れなかった。

 碧が通用口から家屋の横を抜けて庭に出てみると、彼女の姿を見つけた子犬がワン、ワンと激しく吠えた。
老女はリードを引いて犬を手元に引き寄せると、鳴きやまない子犬を黙らせるつもりなのか、覆い被さるような姿勢になって両手で小さな身体を押さえた。

「この歳で動物を飼うなんて思ってもみなかったわ。ほらほら、暴れるのをやめて頂戴」
 子犬は老女の意に反し、その手から脱しようと激しく身を捩った。結局、押さえつけは失敗して子犬は飼い主の手から脱出したが、碧に向かってくることはなかった。子犬は碧と距離を取って低い声で唸っている。

「あなたは裏のマンションにお住まいの方かしら」
「はい。今年の春から住んでいます。水原といいます」

「お勤めなさっているのよね。自転車で通るのをよく見かけます」
 老女は自らを篠崎(しのざき)千恵と名乗り、もう五十年近く、この家に住んでいるのだと言った。

 (かたわら)らでは子犬が低い姿勢で唸り続けていた。自己紹介を終えた千恵は、(なだ)めるつもりなのか子犬の背中を何度も撫でたが、犬は碧への警戒が解けていないようで、犬歯を見せながら碧を(にら)んでいた。

 碧も犬を警戒して、至近距離まで近づくことはしなかった。

「この犬の名前は、何というんですか」
「それが、この子は今日やってきたばかりで、まだ名前が決まっていないの」

 千恵の話では、彼女の二人の孫姉妹のうち、姉が中学校の友達から貰ってきたのだという。だが孫の家ではすでに猫を二匹飼っており、これ以上ペットが増えることを孫の父親、つまり千恵の息子が断固反対した。
 すでに子犬に情が移っていた孫は犬を友達に返すことを拒み、解決策として一人暮らしをしている千恵が引き取る羽目になったらしい。

 千恵は碧の顔を見つめると、「決めた」と声を上げた。
「あなたにこの犬の名前を付けてもらいましょうか」

「それは駄目でしょう」
 碧は思わず顔の前で手を激しく振った。子犬が短く吠える。

「私が名前を付けるなんてとんでもない。きっとお孫さんが名前を考えるでしょう」
「それが嫌なんです」

 千恵は首を横に振ると、子犬を抱きかかえようとした。だが犬はそれに抗い、千恵の腕の中で暴れている。碧は会話に集中できなくて困惑した。

「孫たちが相談して付けた名前は茶々というの。体毛に茶色があるからと言っていたけど、それでは淀君(よどぎみ)なので、私は嫌なのよ。この家が滅んでしまうわ。私自身も太閤(たいこう)殿下になったみたいだし」

 唐突に淀君の名前を出されても、碧には何のことなのかさっぱり分からなかった。
 子犬は千恵の腕から脱出しかけたが、最後は頭を上から押さえられて観念したようだった。身体を動かしての抵抗はやめ、目だけを激しく動かしている。

 力で犬をねじ伏せながら、千恵は犬の名前について考えるのが楽しそうだった。
「何か、おしゃれな名前はないかしら。洋風なのがいいわ。ついでに条件を出せば美味しそうな名前」

 この人はなかなか面白い性格をしている、と碧は思った。
「じゃあ、ラテアートというのはどうですか」碧は言った。「白と茶の二色ですから」
 言ってから碧は恥ずかしくなって(うつむ)いた。あまりに安直で、センスがないと思った。

 ところが千恵は「それいいわね」と言って手を叩いた。
「ラテアートって、コーヒーの上にミルクで模様を描いたものでしょう?」

 少し意味が違っているが、大筋で合っていると思い、碧は頷く。
「ああいうものは、どこで飲むことができるのか、水原さんはご存じなの」
「駅前にコーヒーショップがありますよね。あの店ならやってもらえますよ」
「じゃあ、今度連れて行ってくださるかしら」

 碧は承諾したが、あくまで話の流れでそう答えただけで、まさか翌朝に千恵から具体的な日程の相談があるとは想像していなかった。こうして、初対面から二日後には、碧は駅前のカフェに千恵を連れて行ったのだった。

 千恵との付き合いが深まった今、碧が常日頃から感心するのは彼女のそういう行動力だった。物事をじっくり考えないと進められない自分とは対照的だった。

 碧にとって謎なのは犬の名前で、思い付きで「ラテアート」と提案した翌日に千恵に会った時には、なぜか「カフェラテ」になっていた。千恵の脳内で何らかの誤変換がなされたのは間違いないが、千恵は今でも碧が決めたものと言い張っている。

 カフェラテはオスの雑種で、全身が長めの巻き毛で覆われていた。大きく垂れた耳と目の周り、そして背中から尾にかけての部分が黄褐色で、それ以外の毛は白かった。

 黒く大きな瞳と長い鼻梁(びりょう)得難(えがた)い気品を(かも)し出しているように碧には思えた。端的に言うとハンサムだった。

 カフェラテの登場後、あまり日を置かずに篠崎邸の庭に犬小屋が千恵の息子さんによって設置されたが、千恵は体毛が汚れるのが嫌だといって家の中で飼うようになった。おとなしい性格で、間もなく碧にも慣れた。

 カフェラテは一年が過ぎてもあまり大きくならなかった。

 碧と千恵との間には五十歳近い年齢差があったにもかかわらず、いつしか親しくするようになった。一緒にお茶を飲んだり、夕食を御馳走になったりするにとどまらず、映画を観に行ったこともある。カフェラテが碧になついたので、千恵に代わって散歩に連れていくこともあった。
 碧は千恵の好奇心旺盛で、物怖じしない性格を可愛いと思っていた。
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