第1話 花火の夜

文字数 2,786文字


 午後七時半を過ぎていたが、雅也(まさや)はやって来なかった。水原(みずはら)(あおい)は小さくため息をつくと、二人で食べるつもりで買っておいた生チョコレートの個包装を破き、口の中に放り込んだ。

 あの口論以来、雅也とは一言も口をきいていなかった。でもまさか、今夜の約束を反故にされるとまでは考えていなかった。いつもと同じで何も無かったかのように自然に仲直りするものだと思っていた。

 ひょっとしたら何かの事情で雅也の到着が遅れているだけなのかも知れない。決して時間にルーズではない彼の性格からして、遅れたのなら連絡をくれそうなものだが、それすら事情があってできないものと考えないことには気持ちが落ち着かなかった。

 今夜は碧が住む町に隣接する市で大きな夏祭りがあり、午後八時からは花火が打ちあがる予定であった。マンション五階の碧の部屋からはその花火がよく見えるため、一緒に見ることを雅也と約束したのは先週のことだった。

 夕飯の下準備は終わっている。雅也の到着を待ってオーブンの予熱を始め、ラザニアを焼くつもりだった。冷蔵庫ではスパークリングワインも冷えている。普段なら記念日でもない日にここまで丁寧な用意はしないが、四日前の喧嘩の仲直りも兼ねて、ちょっとばかり碧は張り切っていた。

 そんな弾んだ心は、この三十分で急速に(しぼ)んでしまった。今夜この部屋に来ないということは、雅也の機嫌がまだ直っていないと考えるしかなかった。

 すっかり仲直りをしたつもりでいた碧は、浮かれていた自分が惨めに思えた。一度はスマホを手に取り、雅也に連絡しようという気持ちも湧いたが、自分が聞きたくない反応が返ってくるのが怖くてできなかった。

 碧はリビングの電気を消すと、エアコンのスイッチも切って、南側の窓を開けた。空は曇り空だった。

 蒸し暑い夏の風が室内に入ってきた。碧はキッチンに行くと冷蔵庫からスパークリングワインを出した。留め金を外し、ナプキンを被せてからコルクを指先でゆっくり押していくと、ポンっと音を立てて栓が抜けた。

 碧は窓の手前にクッションを置き、そこに胡坐をかいて大きめのガラスコップにワインを注ぐ。一人きりで飲むのに、ワイングラスを使いたくなかった。

 一口飲むと、途端に目頭が熱くなった。頬が引き()って、口角が強引に上がった、碧は少しの時間、声を出さずに涙を流し、その分だけワインを口に運んだ。

 ふいに窓の外が明るくなり、次いでドーンという音が聞こえてきた。花火が始まったのだ。碧はしばらく上空に展開される色彩ショーに見とれたが、気持ちの鬱屈(うっくつ)は晴れなかった。花火の(きら)びやかな光景と心臓に響く轟音よりも、その合間の暗闇と静寂の方が気になってしまい、寂しさは増す一方だった。

 田口雅也は碧より二歳下の職場の同僚だ。最初のうちはお姉さん感覚で世話を焼いているのが楽しかった。仕事でもプライベートでも、いろんなことを雅也に教えてきた。素直にそれを吸収していく雅也のことが好きだった。

 雅也の発した一言にドキリとしたり、自分の言葉への雅也の反応に焦ったりするようになったのはいつ頃からだろうか。そのうち雅也の機嫌を|窺《うかがうことばかりになっていた。

 こんなことではいけないと思い、思い切って社内のキャリアアップの意向調査で昇進を希望したことが、雅也には気に入らなかったようだ。

「俺のことはどうでもよくなったっていう感じなんだね」
 雅也が口を歪めて出した言葉には、彼の不満が込められているように感じられた。碧は胸の中が、雅也の負の感情のオーラでじわじわと浸蝕されていく感覚に陥った。

「雅也のことと、私のキャリアアップのことは別でしょう」
「俺のことを一番に考えていると言っていたじゃない。それは無効になったということ?」
「だから、雅也のことを考えることと自分自身のこととは別問題だよ」

 碧は必死に言い訳したが、年少の恋人は怪訝(けげん)そうな表情を浮かべるだけだった。

 言葉では簡単に「君が一番だよ」と言えるけれども、現実にはすべての物事を順番に並べることなどできないことくらい理解してほしかったが、結局は黙った。雅也の考え方が碧の思っていた以上に幼いことに驚きつつも、碧にはそれが愛おしかったのだ。

 だけど正直なところ、雅也には私の決断を応援してほしかった、と碧は思っていた。おまけに四日も無視されている。そんなに怒るエネルギーがあるのなら、もっと私のことを考えてくれてもいいのではないか、と情けない気分だった。

 もはや碧は花火を見ているようで、目線の先では何を見ているのか分からなくなっていた。碧はスパーリングワインを一気飲みして、小さくゲップをした。このままでは悪酔いしそうだった。碧はラザニアを焼こうと決め、立ち上がった。

 この時、青色と黄色に光りながら四方に広がっていく花火の真ん中から、ひときわ強い光が斜め上に飛んでいくのが見えた。白く小さい光の粒で、まるで他の火花と仲間割れして、一つだけが自分勝手な方向に飛び出したようだった。

 その光は高く上がっていくうちに見えなくなった。

 今の白い光は失敗作なのだろうか。興味の湧いた碧は白い光が消えた辺りをしばらく凝視していた。すると、再び小さな光が見えてきた。暗い空に、白い光が、次第に明るさを増しながら下に向かって落ちてくる。まるで流れ星のようだった。

 その横を別の花火が打ちあがり、今度は赤と紫の花模様が開く。一瞬、白い光と花火が同化したが碧は光を見失わなかった。なぜなら白い光が花火よりもかなり近距離を飛んできているのが視覚的に認識できたからだ。しかも、どうやら碧に向かってきている。光というよりも、火球だった。

 うそでしょ。

 そう思いながら、碧は窓際に立ったまま動けなかった。実際にはわずか一、二秒のことであり、碧は火球の行方を確認するだけで精一杯だった。強い光を発し、その軌跡を残像として残しながら、火球は碧の住むマンションに向かって飛んでくる。そしてマンションの南側の住宅街に突っ込んで姿を消した。落下音は発生しなかったが、犬の鳴き声が聞こえた。

 茫然と状況を見ていた碧は、犬の激しい鳴き声にはっとして窓から身を乗り出す。窓の下には十数軒の住宅が広がっているが、どこに火球が落ちたのかは分からなかった。

 あれは何だったのか。花火に不具合があって、その一部が飛んできたのかとも考えたが、隣町の花火がここまで飛んでくるというのは現実的ではないと思われた。隕石と考えるのが自然なのかな、という考えに落ち着いた。

 火事でも発生するようであれば通報しようと思い、碧は食事中も窓の外に何度も目をやったが、異変は起きなかった。

 変な体験をしたせいで雅也に対して思い詰めていたものが心の中心から外れてしまったのか、碧はそれから比較的落ち着いた気分で一人だけの夜を過ごしたのであった。
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