第6話 カフェラテの来訪(1)

文字数 2,133文字

 (あおい)は帰宅後、慌ただしく化粧を落としてシャワーを浴びると、二年前に入居した際に管理会社から渡された書類の束を出して読んだ。ペットの持ち込みに関する規定を調べたかったのだ。だが、それらしい条項を見つける前に時間切れになってしまった。

 咄嗟(とっさ)だったとはいえ、カフェラテと会う場所に自宅を指定してしまった自分の浅慮(せんりょ)を嘆きたい気分だった。ジョギングコースにしている北の公園にでもしておけばすっぽかすこともできたのに、マンションの部屋番号まで教えてしまったのでは逃げようがない。

 午後十時五分前、碧は大きめのバスタオルを入れたスポーツバッグを下げてエントランスに降りた。いざとなったらカフェラテをタオルに包んで五階まで移動するつもりだった。

 エントランスにはまだカフェラテの姿は無かった。緊張で心拍を速めながら支度をしていた碧は、閑散としたエントランスに少し拍子抜けした。

 午後十時。自動ドアの向こう側にカフェラテが現れた。玄関マットの上に立っているが、センサーが認識しないのか、ドアは開かない。どうするんだろうと見ていると、カフェラテはマットの上でジャンプを始めた。それでもドアは開かない。その仕草がコミカルで、碧は思わず吹き出した。

 すると碧の姿に気づいたらしいカフェラテが短く吠えた。いたずらを見つかったようなばつの悪さを感じた碧は、駆け寄って自動ドアを開けてやった。

「ここでいいのか?」エントランスの中に入ったカフェラテは、首をぐるりと回して四方に目をやった。

「いいえ、部屋に移動するわ」
 碧はエレベーターのボタンを押してからカフェラテの前に屈むと、白いタオルに包んで抱きかかえた。

 エレベーターで五階に上がって部屋の入口にたどり着くまで、碧たちは誰にも会わなかった。
 部屋に入って床に下ろしてやると、カフェラテは何も言わずにリビングへ走り出した。碧は急ぎ施錠してチェーンロックを掛けると、カフェラテの後を追う。

 カフェラテはリビングの南側の窓に行き、レースのカーテンに上半身を突っ込んでいった。何をするのかと碧が近づいてみると、子犬は網戸に鼻を強く押し付け、頭を動かしていた。網戸を開けようとしているようだった。

「そこをどいて」
 碧はカフェラテを横に退かせると、網戸を開けてやった。カフェラテはバルコニーに出ようとはせず、首だけを窓の外に出して空を見上げた。

「この部屋の位置は千恵(ちえ)の家よりも少し高いわね」
 カフェラテは振り返って碧にそう言うと、脚を折りたたんで腹ばいになった。顔は外を向いたままだ。碧は後ろに立ったまましばらく様子を窺っていたが、カフェラテは姿勢を動かさず、何も発せず、ただ窓の外を見ているだけだった。

 外から吹き込んでくる風でカーテンがはためいた。じっとりと汗ばむ碧には心地よい風だった。そして風が止むとカーテンが下がり、尻尾だけを残してカフェラテの身体を隠した。

 カフェラテの身体が現れたり隠れたりの繰り返しを見ているうち、碧は次第にイライラしてきた。
「ねえ、私に何を説明してくれるの?」
「もうちょっと待ってくれないかな」

 碧はキッチンに行き、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐと、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けて飲んだ。徐々に緊張感が抜けてきて、カーテンの裾から見え隠れする犬の尻尾を見ているうちに意識が混濁してきた。
 気がつくとカフェラテはリビングのクッションの上に移動していた。そして「こっちに来てくれないか」と碧を呼んでいる。碧は頬を軽く叩いて立ち上がると、寝室のクローゼットから来客用の籐製(とうせい)の座布団を持ってきた。

「あなたが座っているクッションは私専用なんだけどね」
 碧はローテーブルを挟んでカフェラテと対峙する位置に座布団を置くと、その上に胡坐(あぐら)をかいて座った。

「なんで犬のあなたが人間と同じ言葉を話しているのか、そこから説明してほしいわ」
 碧の言葉に、カフェラテは首を横に傾け、次に大きく口を開けて欠伸(あくび)のような仕草をすると、耳を少し上下させた。

「その前に確認したいのだけど。あなたを識別する名称はアオイで正しいのかな」
「ええ。どこで知ったのかは知らないけれど、碧で正しいわ」

 碧はカフェラテをしっかと見据えた。一旦は緩んだ緊張感が戻ってきた感じがした。

 一方のカフェラテも細かく瞬きをしながらじっと碧を見ている。そして耳をまた上下させるとブルル、と鼻を鳴らした。

「実は、私はこの星の生物ではないの」
「えっ?」

 碧は口をあんぐりと開けたまま、目の前の犬の次の言葉を待った。

「私はこの星の単位で二十四・七八時間前に、船の不具合でこの星に不時着したのだ」

「カフェラテさん――」碧はテーブルに身を乗り出した。
「あなたは二年前から篠崎さんの家で生活していたでしょう」

「いや、アオイがカフェラテと呼んでいるこの生物のことではなく、私の話をしているのよ」

「どういうこと?」碧は聞き返した。
「私はこの星の、正確にはこの星を含む恒星系の外からやってきた存在なの」

 この犬は何を言っているのだ。唖然とした碧は姿勢を戻し、テーブルの上に置いた両手の人差し指を互いに合わせながら、自分が何を考えるべきかを思案した。
 驚きの感情は湧いてこない。困惑が大きかった。
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