第14話 図書館と宇宙(2)

文字数 2,490文字

 翌日の九時過ぎ、(あおい)は普段はあまり乗らない軽自動車で千恵を迎えに行った。市立の図書館までは電車で二駅の距離だが、千恵を歩かせることに抵抗があった。

 千恵の家には中年女性と中学生らしい女の子がいた。自己紹介した碧に対し、相手は会釈しただけで名乗らなかったが、中年女性の方は千恵の息子の妻である枝里子で間違いなさそうだった。もう一人は彼女の娘なのだろう。

 枝里子は眉間に深い(しわ)を刻み、口を真一文字に結んだまま娘の肩に寄りかかるようにして立っていた。その態度があまり好意的には思えなかったので、義母の外出を快く思っていないものと碧は受け止めた。

「出掛けてもよかったのですか?」
 車を出発させてから、碧は千恵に確認した。

「何が? 入院は明日なので大丈夫ですよ」
 そういうことを聞いたのではない、と碧は苦笑した。

 今日の千恵は、いつになく浮かれている様子だ。なぜそんなふうに映ったのかというと、首元の白とグリーンのスカーフと、クリーム色のブラウス、そして青みがかったサングラスの取り合わせが華やかというか派手に見えたからだった。

「水原さん、今日は本当にありがとうね」千恵は礼を言うと、「今日一日付き合わせてしまって、本当に大丈夫ですか」と聞いてきた。

「私は大丈夫ですけど――」
 碧はバックミラー越しに後部座席に目をやった。バスタオルを敷いたシートの上でカフェラテがシートに横たわって目を閉じていた。その腰には、おむつの役割をするマナーベルトが装着されている。

「私たちが図書館にいる間、カフェラテを自由行動させて本当に大丈夫ですかね」
「でも、家で留守番させるのも可哀想でしょう」

 図書館に行くのにカフェラテを連れて行くと言い出したとき、千恵の家族は反対したそうだ。昨夜、そのことを電話で千恵から伝えられた碧は、いきり立つ千恵の前で頭を抱える息子夫婦の姿が頭に浮かんできて、申し訳ない気分になった。

 介助犬ではない犬を図書館に連れて入ることは原則できない。そうすると車の中でカフェラテを待機させることになってしまうが、残暑がまだ厳しいこの時期に生物を車内に残す行為は非常識である。

 図書館にいる間、カフェラテをどうするのかについて、千恵は何も考えていなかった。カフェラテ自身に聞いてみると、「この星を観察する良い機会だ」と言い出し、どうやら街中を探索するつもりらしい。

 碧はリードの無い状態で街中をうろつかないでほしいとお願いしたが「大丈夫だ」との返事があっただけだった。

 図書館の駐車場に到着後、碧が後部座席のドアを開けてやると、カフェラテはアスファルトの地面に降り立って辺りを見回した。

「どこに行くつもり?」と碧が聞くと、カフェラテは「散歩だな。まずは移動可能な範囲で、当てずっぽうに行ってみるよ」と答えた。

「じゃあ、時間を決めておこうか」
「そうだな。あれを見てくれ」

 カフェラテが前足で示した先には、商店街のアーケードの電光掲示板があり、時刻がデジタル表示されていた。「あれは時間の経過を示すモニターだろう。二時間後にここに戻る」

 そう言うと、カフェラテは駐車場の入口の方向へ走り出した。

 大丈夫なのか。碧は少し心配になった。いくら知能が進んでいると言っても外見は犬である。人の心を読む以外に特殊能力があるわけでもない。凄い生き物のような気がしていたけれど、この世界では犬に過ぎないのだ、ということに気づいた。
 一瞬、碧にはカフェラテが愛しく思え、それがおかしかったので、ふっと小さく笑った。

 図書館では、千恵が天文学関係の図鑑を読むのに協力した。それは読むというよりも図表を見ると言った方が正確で、キャプションの内容を説明するのが碧の役割になった。

 図書館に来るまでの千恵の知識は、地球、太陽、月のほかには火星、木星、金星、土星など、太陽系の惑星の名前と並び順を知っている程度だったようで、そのせいか彼女の想像する宇宙とは太陽系の範囲にとどまっていた。

 千恵の目の前に大きな図鑑を広げて星々の距離的な広がりを見せると、千恵は声を漏らすほど感情を高ぶらせた。宇宙というものの大きさが、自分の日常からかけ離れすぎていることに感嘆したようだった。

 千恵に図鑑の内容を小声で説明する碧だが、実は天文学の知識はほぼゼロに等しかった。さすがに太陽系の惑星だけでなく、天の川が銀河であることくらいは知っていたが、あくまでもそのくらいは知っているという程度であり、千恵とは五十歩百歩なのであった。

 少し休憩したのち、碧は星座の本を持ってきて千恵に紹介した。千恵は星占いの星座は知っていたが、それらの星座の天空での配置については全く知らなかった。

「星座として連なっている星は、すべて地球からは同じ距離にあるわけじゃないのね」
「違うみたいですね。平面的に見えますけど、個々の星の距離はバラバラみたいです」

「へええ」星座図鑑を凝視していた千恵が、顔を上げて碧を見た。眼鏡型のルーペを装着しているので目が大きく見え、それが碧にはおかしかった。

 あっという間に二時間が経過した。後半の三十分は、お互いがそれぞれ気に入った本を読んでいた。

 碧は小学生向けと思われる『惑星のなりたち』という科学読本の続きが気になったので、借りて読むことにした。一方の千恵も、星座に関する本を何冊か抱えてカウンターに歩きかけたものの、途中で気が変わったのか、書棚にすべて戻してしまった。

「本を借りなくて良かったんですか」
 建物から出るときに碧が聞くと、千恵は「入院期間が長いと、自分で返却することができないかも知れない。そうすると誰かに迷惑が掛かってしまうわ」と答えた。

「でも私は借りることにしましたから、よろしかったら一緒に返却してあげますよ」

 碧がそう言ったが、千恵は「いいの、いいの」と断った。
「いっそのこと、星に関する本を買うことにする。だから家に帰るまでにどこか本屋さんに連れて行ってくださいな」

 図書館の後は、カフェラテを連れてランチに行くことになっている。碧がスマホで調べたペット同伴可の店を、千恵が電話で予約していた。
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