第11話 一匹と二人の打ち合わせ(1)
文字数 2,382文字
夜、約束した時間にエントランスに降りていくと、そこにはカフェラテを抱いた千恵が立っていたので、碧 は仰天した。
「どうしたんですか、篠崎 さん」
碧が声をかけると、千恵は困ったような表情を浮かべて頭を下げた。
「いえ、その――。カフェラテが水原さんに会う約束をしているから行くんだというものですから」
「カフェラテがそう言ったんですか?」
千恵は困惑の度合いが増したらしく、下がり気味の眉をさらに下げた。
碧は千恵の目の周りが赤く腫れているのに気がついた。
「カフェラテ、あなたねえ――」碧は千恵の腕の中に収まっている子犬を睨みつける。
カフェラテは顔を千恵の胸に押し付けたまま、くぐもった声で「早く部屋に行こう」と言った。
部屋に千恵を案内した碧は、リビングのソファーに老女を座らせ、冷蔵庫から麦茶を出すと、グラスと一緒に運んだ。西瓜 を食べるか聞いてみたが、千恵は首を横に振り、「お構いなく、ね」と断った。
カフェラテはソファーの上にあったクッションを咥 えて床に置くと、一昨日と同じようにその上に座った。
「篠崎さんは、カフェラテが人間の言葉を話したのを聞いたのですか」碧はゆっくりと言葉を並べた。
「そうなのですよ」千恵は少し擦 れた声で答えると、麦茶を口にした。「生まれて初めての経験でしたので、私は今でも信じられない気持ちでいっぱいです」
「それは、そうでしょうね」碧は相槌 を打つ。自分自身も二日前に生まれて初めての経験をしたばかりだ。
碧は隣に座る犬を睨みつけた。その平然たる態度が憎らしく、碧は犬が座っているクッションを力任せに手前に引っ張った。クッションから落ちて尻餅をついたカフェラテがキャンと鳴いた。
「危ないではないか」
「どうして篠崎さんに話したのよ」碧はカフェラテの耳を引っ張って言った。「何を話したの。どこまで話したの。これからどうしたいの。全部説明しなさいよ」
カフェラテは頭を振って何かを言いかけたが、それよりも先に千恵が身を乗り出して碧の腕を掴んだ。「カフェラテが痛がっていますから、やめてください」
千恵に言われて我に返った碧は、カフェラテの耳から手を放した。
カフェラテは後ろ足で耳を掻 くと、首を一回転させてから碧の横に座り直した。
「これから説明するけれど、千恵にある事態が生じたため、私の方の事情を説明する必要があると判断した」カフェラテが言った。「そして、碧も知っていてほしいので、またここに来たのだ」
「何のこと?」
碧はカフェラテと千恵の双方を見比べながら質問した。
「私の脳に異常があるんですって」千恵が答えた。
「脳に異常ですって?」
碧が聞き返すと、今度はカフェラテが答えた。
「千恵の脳の一部に機能異常があり、情報の伝達に支障が出ていることが分かった。今から約三十六時間後に彼女の関係者が同行して検査をすることになっている。結果が正式に出されるのはまだ先のことになるだろうが、私は事実として把握しているから、先刻彼女に伝達した」
「それで、大丈夫なの?」
碧は無意識に声のトーンを落としていた。今から説明されるであろう重大な話を自分が聞いてもいいのか、との思いもあった。
「まだ分からないけど、この子が言うには深刻らしいのよね」
カフェラテではなく千恵が答えた。「私はいまだに信じられないのだけれど、カフェラテが間違いないというから、途方に暮れてしまいました」
「何か、自覚症状みたいなものはあるんですか?」
碧の質問に、千恵は首を振った。「気がつかなかったけれど、言われてみれば言葉が出にくい時があったり、足が痺れたり、少しふらつくようなときもあります」。
千恵は鼻をすすり、パンツのポケットからティッシュを出して目の周りを拭った。「でもこの年になれば、そういうことは普通に起きるものと思っていました」
どのように返していいのか分からず、と碧は黙って聞いていた。
「そんなことよりも」千恵の声が少し大きくなった。「カフェラテから突然、あなたは頭に異常がある、このままでは生命活動に支障があるけどそれでいいか、と言われたのは驚きました。信じられないでしょう」
「さぞかし驚かれたでしょう」
「でも、カフェラテは私の身体を心配してくれているのだから、それは嬉しいのです」
千恵の頬を涙が伝う。碧には千恵の混乱ぶりはよく分かった。それだけに、カフェラテに腹が立った。
「カフェラテ、あなたは言葉と気持ちの伝え方がまるで分かっていないのね」
「それは仕方ないだろう。私のこの星の言語能力は、千恵と碧の二人から学んだものに過ぎない。気持ちに関しては理解に限界がある」
カフェラテは、異常事態だと判断したからできることをしたのだ、と言葉を続けた。彼としては、自分の存在を千恵に伝える予定ではなかったが、千恵の意識から情報を得る過程で、彼女の脳に異常を感知したのだという。
「異常があるのだから本人に伝えないわけにはいかない。一方で、私のことを説明しないままで伝えることが難しいと判断したので、あえて存在を明かすことにしたのだ」心なしか、碧にはカフェラテが胸を張ったように見えた。
「碧から非難されるものではない」
「それはそうだけど――」カフェラテの言い分に、碧はすっきりとはしなかったが、今一番ショックを受けているのは千恵本人なのだから、私が怒っても仕方ないと思い直した。
カフェラテから脳の異常に対処するよう助言された千恵は、日中に病院を受診し、明後日に家族同伴で改めて精密検査を受けることになったと言った。
「最初にカフェラテが言葉を話すのを聞いたとき、私は自分の頭がおかしくなったと思いました。そうしたらカフェラテが脳に異常だと言うのです。本当におかしい話ですよね」
千恵は少しだけ笑い、そして黙り込んだ。本人とすれば面白い話のつもりかもしれないが、碧は笑えなかった。
「どうしたんですか、
碧が声をかけると、千恵は困ったような表情を浮かべて頭を下げた。
「いえ、その――。カフェラテが水原さんに会う約束をしているから行くんだというものですから」
「カフェラテがそう言ったんですか?」
千恵は困惑の度合いが増したらしく、下がり気味の眉をさらに下げた。
碧は千恵の目の周りが赤く腫れているのに気がついた。
「カフェラテ、あなたねえ――」碧は千恵の腕の中に収まっている子犬を睨みつける。
カフェラテは顔を千恵の胸に押し付けたまま、くぐもった声で「早く部屋に行こう」と言った。
部屋に千恵を案内した碧は、リビングのソファーに老女を座らせ、冷蔵庫から麦茶を出すと、グラスと一緒に運んだ。
カフェラテはソファーの上にあったクッションを
「篠崎さんは、カフェラテが人間の言葉を話したのを聞いたのですか」碧はゆっくりと言葉を並べた。
「そうなのですよ」千恵は少し
「それは、そうでしょうね」碧は
碧は隣に座る犬を睨みつけた。その平然たる態度が憎らしく、碧は犬が座っているクッションを力任せに手前に引っ張った。クッションから落ちて尻餅をついたカフェラテがキャンと鳴いた。
「危ないではないか」
「どうして篠崎さんに話したのよ」碧はカフェラテの耳を引っ張って言った。「何を話したの。どこまで話したの。これからどうしたいの。全部説明しなさいよ」
カフェラテは頭を振って何かを言いかけたが、それよりも先に千恵が身を乗り出して碧の腕を掴んだ。「カフェラテが痛がっていますから、やめてください」
千恵に言われて我に返った碧は、カフェラテの耳から手を放した。
カフェラテは後ろ足で耳を
「これから説明するけれど、千恵にある事態が生じたため、私の方の事情を説明する必要があると判断した」カフェラテが言った。「そして、碧も知っていてほしいので、またここに来たのだ」
「何のこと?」
碧はカフェラテと千恵の双方を見比べながら質問した。
「私の脳に異常があるんですって」千恵が答えた。
「脳に異常ですって?」
碧が聞き返すと、今度はカフェラテが答えた。
「千恵の脳の一部に機能異常があり、情報の伝達に支障が出ていることが分かった。今から約三十六時間後に彼女の関係者が同行して検査をすることになっている。結果が正式に出されるのはまだ先のことになるだろうが、私は事実として把握しているから、先刻彼女に伝達した」
「それで、大丈夫なの?」
碧は無意識に声のトーンを落としていた。今から説明されるであろう重大な話を自分が聞いてもいいのか、との思いもあった。
「まだ分からないけど、この子が言うには深刻らしいのよね」
カフェラテではなく千恵が答えた。「私はいまだに信じられないのだけれど、カフェラテが間違いないというから、途方に暮れてしまいました」
「何か、自覚症状みたいなものはあるんですか?」
碧の質問に、千恵は首を振った。「気がつかなかったけれど、言われてみれば言葉が出にくい時があったり、足が痺れたり、少しふらつくようなときもあります」。
千恵は鼻をすすり、パンツのポケットからティッシュを出して目の周りを拭った。「でもこの年になれば、そういうことは普通に起きるものと思っていました」
どのように返していいのか分からず、と碧は黙って聞いていた。
「そんなことよりも」千恵の声が少し大きくなった。「カフェラテから突然、あなたは頭に異常がある、このままでは生命活動に支障があるけどそれでいいか、と言われたのは驚きました。信じられないでしょう」
「さぞかし驚かれたでしょう」
「でも、カフェラテは私の身体を心配してくれているのだから、それは嬉しいのです」
千恵の頬を涙が伝う。碧には千恵の混乱ぶりはよく分かった。それだけに、カフェラテに腹が立った。
「カフェラテ、あなたは言葉と気持ちの伝え方がまるで分かっていないのね」
「それは仕方ないだろう。私のこの星の言語能力は、千恵と碧の二人から学んだものに過ぎない。気持ちに関しては理解に限界がある」
カフェラテは、異常事態だと判断したからできることをしたのだ、と言葉を続けた。彼としては、自分の存在を千恵に伝える予定ではなかったが、千恵の意識から情報を得る過程で、彼女の脳に異常を感知したのだという。
「異常があるのだから本人に伝えないわけにはいかない。一方で、私のことを説明しないままで伝えることが難しいと判断したので、あえて存在を明かすことにしたのだ」心なしか、碧にはカフェラテが胸を張ったように見えた。
「碧から非難されるものではない」
「それはそうだけど――」カフェラテの言い分に、碧はすっきりとはしなかったが、今一番ショックを受けているのは千恵本人なのだから、私が怒っても仕方ないと思い直した。
カフェラテから脳の異常に対処するよう助言された千恵は、日中に病院を受診し、明後日に家族同伴で改めて精密検査を受けることになったと言った。
「最初にカフェラテが言葉を話すのを聞いたとき、私は自分の頭がおかしくなったと思いました。そうしたらカフェラテが脳に異常だと言うのです。本当におかしい話ですよね」
千恵は少しだけ笑い、そして黙り込んだ。本人とすれば面白い話のつもりかもしれないが、碧は笑えなかった。