第20話 千恵の頼みごと(1)
文字数 2,228文字
翌日の午後、
引き出しを開けて発信者が千恵であることを確認すると、碧はさりげなさを装って席を立つと、早足で廊下へ出た。
「どうしたんですか、千恵さん」
「碧さん、お願いがあるんですけど、土曜日に病院に私を迎えに来てくれませんか」
千恵の声は上ずっており、息が荒かった。
「千恵さん、退院するんですか?」
「はい。精密検査が一段落したので、短期間ですが一時退院することになったのです。ですが洋介たちが家ではなくて施設に入ってほしいようなことを言い出したので、私は怒ってしまいました」
「はあ?」
「とにかくお願いです、土曜日の十時までに迎えに来てください。七階の七〇五号室です。カフェラテにも会いたいです」
通話は切れた。碧はたった今耳から入ってきた情報を整理できず、言葉の断片が頭の中でぐるぐる回っている感じがした。
千恵は一時退院後に自宅には戻らず、何らかの施設に入ることになったということらしい。本人はそれが嫌なので、碧に自宅まで連れ帰るように頼んできたということなのか。
千恵からとんでもないお願いをされたと気づいた碧は慌てた。もう少し詳しい話を聞こうとしてリダイヤルボタンをタップしたが、電話はつながらなかった。
碧はそれから、断続的に千恵の番号に電話を掛けたが、ついに千恵が出ることはなかった。スマホを片手に何回も席を立ったせいで、勘違いした
まさか監禁されているようなことは無いと思いながらも、心が落ち着かなかった。
仕事の帰り、カフェラテはいつも通りに篠崎邸の庭の犬小屋の屋根で碧を待っていた。碧に気づくとカフェラテは塀に駆け上がり、そこからジャンプして自転車の前かごに飛び移ってきた。
碧が千恵から持ち掛けられた内容を話すと、カフェラテからは「できないなら断ればいい」と素っ気ない返事が戻ってきた。
千恵からの連絡にもっと反応すると思っていたので、碧は少し拍子抜けがした。
「あんたが再会できるかどうかなんだから、少しは気になるでしょう?」と聞く碧に、カフェラテは「会いたがったのではなく、病状を確認したかったのだ。それに重要なことは手術の日程なんだ」と言い返した。
「私の帰還予定とは、どちらが先になるのだろうかが気がかりだ」
マンションに戻ってからも、カフェラテは碧の悩み事に興味がなさそうだった。
「千恵さんには他に頼ろうとする人がいないのかしら」夕飯用に買ってきたサラダパスタをフォークで混ぜながら碧は言った。足元ではカフェラテがドッグフードを食べている。
「私は家が近所ということだけで親戚でもなければ友達でもない。昔からの知り合いでもない。困ったわ」
「何が困るのか、理解できない」カフェラテは口の周りを舌で
「その二択を悩んでいるのよ」碧は
「水は飲まないの?」
「後で飲む」
カフェラテは半開きの引き戸から、隣の寝室へと入っていった。おそらく寝室の窓から空を眺めるのだ。碧の部屋に来てから、カフェラテがしばしば取る行動だった。
空を眺めるだけならリビングの窓でも同じなのだが、寝室はベッドの上から外を見ることができるので、カフェラテのお気に入りだった。
碧はカフェラテに気づかぬよう足音を立てずにリビングを移動し、引き戸の隙間から寝室を覗いた。電灯が点いていない部屋はほぼ真っ暗だったが、マンションの駐車場からの光で、カフェラテがベッドに横座りして外を見ているシルエットが見えた。
碧には、暗闇で窓の外を見つめている犬の姿がとても崇高に思えた。中の精神体は、今この瞬間、何を想っているのだろう。
碧はリビングの電気を消すと、窓際に行って空を見上げた。月は半分以上が欠けた状態で、西側の丘陵地に落ちようとしていた。星がいくつか見えるが、碧にはそれが何の星なのかは分からない。
碧は裸足のままバルコニーに出る。この上空のどこかに夏の大三角形があるはずだが、碧には見つけることができなかった。
斜め後ろの寝室に振り返ると、開け放たれた窓の中に小さな赤い光が見えた。碧が目を凝らすと、その光はカフェラテの顔の辺りから発せられている。細かく点滅しているようだ。
碧は見てはいけないものを見たような気になり、足音を立てずにリビングに戻った。
小さな光があんなふうに点滅するのを碧はどこかで見た記憶があったが、それがどこなのかを思い出すことはできなかった。それを目の当たりにしたのは数日後のことで、彼女は職場でLANケーブルのハブのLEDランプを見て「これだ」と思わず手を叩いたのだった。
この時の碧は、頭を発光させているカフェラテの姿に少なからず驚き、中にいる精神体を友達のような感覚で捉え始めていた自分を強く戒めた。
相手は宇宙人だ。見た目の印象で警戒を解いてしまっていたけれど、気を許してはいけない。
考えてみれば、地球に住む人間同士だって、なかなか理解し合えないのではないか。
碧は日頃の自分が考えたこともなかったことに思い至ったことに驚き、そして恥ずかしくなって肩を