第25話 市立病院にて(2)

文字数 2,634文字

「あの、私はどうすればいいですか?」
 少し強めに発した(あおい)の言葉に、親子は言い争いを中断して彼女の顔を見た。

「千恵さんから家に連れて帰ってほしいと頼まれて、私は迎えに来ているのですよ」
「はい、それは分かっています。母が勝手なことを言いまして、本当にすみません」

 洋介は謝罪の言葉を口にしつつ、目線を碧から()らした。一度(うつむ)いてから、そのまま視線を横で丸椅子に座る妻の方に向け、そして唇を噛み締めた。

 碧には洋介がこの場の対処に苦慮しているように見えたが、彼の「母が勝手なことを」という部分にカチンときたので畳みかけた。

「結論が出ないようでしたら、いっそのこと場所を変えてやったらどうですか。病室で大声で言い争っていては、他の患者さんに迷惑だと思いますよ」

「大声で言い争っているわけではないのですが」洋介が小声で反論したが、碧は首を振った。「いえいえ、私が入ってくるときには皆さんの声が廊下まで聞こえていましたよ。周りの患者さんの迷惑を心配されるのであれば、早くここを出ることです」

「でも碧さん、私は家に帰りたいの」
 千恵が両手を胸の前で握って懇願してみせた。碧は不安そうな表情を浮かべる千恵に、笑顔を作って見せてやった。

「いったん家に戻って、御家族で話し合いをされたらどうですか」
 洋介は碧の言葉に何かを言おうとして、言葉を飲み込んだようだった。千恵はうんうんと頷いている。枝里子はうなだれた様子で丸椅子に座ったままで、まるで生気を失っているように見えた。

「千恵さんの身体のことを考えると、あまり興奮させず、リラックスさせて話をしてあげた方がいいんじゃないかと思うのです」

「――分かりました」
 洋介が了承した。碧は安堵した表情で碧を見る千恵に「あとでカフェラテを連れていくね」と声をかけ、息子夫婦に頭を下げて病室を出た。

 廊下には看護師が二人立っていて、病室内の口論の行方を気にかけている様子だったので、碧は「話し合いは終わりましたよ」と教えてやった。大したことを言ったわけではないが、うまく仲裁できた自負があり、碧は少し誇らしい気分だった。

 カフェラテに余計な感情を削ってもらったから、自分がどう思われるかなどという余計なことを考えなかった。それが結果的に良かったのかな、と思えてきた。

 駐車場に戻ると、カフェラテが植込みの奥から飛び出してきた。木陰で碧が来るのを待っていたようだった。

「どうだった。私は千恵さんと接触できそうか」
 カフェラテは碧の背後を覗き込むように首を左右に回した。

「あんた、足が真っ黒じゃないの」碧は後部座席のドアを開けてタオルを出すと、カフェラテの足を拭き始めた。どこを徘徊していたのかは知らないが、体毛も濡れていた。

「雨で湿った地面を歩けば土が付着するのは当然だ。そんなことよりも質問に答えてくれ」
「ここでは無理だけど、千恵さんは家に戻るから、会えるわよ」

「そうか」カフェラテは尻尾を振りながら車に乗り込んだ。その軽快な仕草を見て、碧には彼が喜んでいるように思えた。

 碧は千恵たちの出発を待つことなく、先にマンションに帰った。カフェラテからは千恵を乗せた息子夫婦の車がそのまま施設に直行する可能性を心配されたが、さすがにそれはないと思った。そんなことをすれば施設に着いたところでまた修羅場が待っている。

 部屋に戻った碧は、午後の予定に向けて身支度を整えた。雅也と約束した十一時半まで、あと一時間ある。千恵たちが家に着いた頃を見計らってカフェラテを連れて行ったら、雅也を待っていればいい。

 支度にも時間はかからなかった。日差しが出てきたのでつばの大きなバケットハットを用意して、クルーネックの半袖Tシャツの上にコットンのカーディガンを羽織るだけだ。

 碧はソファーに座ると、スマホでLINEをチェックする。雅也からは何のメッセージも入っていないので、予定通りでいいのだろう。

 碧は窓際で外を見ているカフェラテに「そこから見えるの?」と聞いた。
「見えない」
 カフェラテは碧の足元に歩いてきて、床に伏せて座った。

「千恵のところには私だけが行けば目的は達せられるのだから。碧は私をここから出してくれればいいよ」
「そういう訳にはいかないわよ。私はあんたを預かっているのよ。犬だけが千恵さんの家に行けば、私の管理責任が問われるわ」

「そういうものか」カフェラテは(あご)を床に着けて目を閉じた。

 碧はカフェラテの顔をぼんやり眺めているうち、どうして千恵の病状のことを知りたがっているのかが気になってきた。

「あんた、千恵さんのことが心配なの?」
「心配している」カフェラテは目を閉じたまま答えた。

「あんたには感情がないんじゃなかったっけ」
「碧は誤解している」カフェラテは眼を開けて碧を見た。「私にも感情はある。その制御技術が碧たちよりも優れているということだ」

「じゃあ、普通に千恵さんの病気のことを心配しているということでいいのね」
「普通、という前提がよく分からないのだが、千恵の体内で生じている機能異常の程度について心配しているのは事実だ。つまり千恵の活動停止の可能性の大きさを知りたいのだ」

 碧が調べた限りでは、神経膠腫(こうしゅ)という病気には死の危険性もある。カフェラテが活動停止という言葉を使ったことの意味について、碧は深刻に受け止めた。

「あんたは、もしも千恵さんが死んでしまうとなったら悲しいの」

「悲しい」カフェラテは呟いたが、碧の質問に答えたというよりも自分の口で単語を反芻しているだけのように思えた。

「感情があるのだから、やっぱり悲しいと思うよね? それとも生物がいつか死ぬのは当たり前の話だと思って何も感じないの?」

「アミュターイシュ星では、生命維持活動が停止することは再生することでもある。だから死ぬことを悲しいと感じることはなかった。だが千恵という生物が機能停止すれば、彼女の意識も消滅するのだな。それは悲しい」

 カフェラテは立ち上がり、窓の外に目を向けた。
「悲しい、ということなんだろう」
 まるで自分自身に問うているような言い方だった。

 碧は胸の中に熱を感じた。カフェラテが悲しいと言ったことが嬉しく、()めてやりたい気分になった。彼女は後ろからカフェラテを羽交(はが)い絞めにすると、その耳元で、「じゃあ、行こうか」と(ささや)いた。

「まだ早くないか」
「家の前で待っていよう。早く会いたいでしょう?」

 碧はカフェラテから手を離して立ち上がり、帽子とショルダーバッグを掴んだ。
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