第34話 カフェラテの提案(2)

文字数 2,502文字


 (あおい)にはカフェラテの申し出が、死期が近づいた人への最後のサービスのように思えて、あまりいい気持ではなかった。もうすぐお前は人間としての精神状態を維持できなくなるぞ、と最終宣告をしたうえで、最後にちょっとだけ楽しい思いをさせてやる、と追いつめているように聞こえる。

 はっきりしていることは、地球人としての千恵の生涯はここで終わり、精神を分離後は地球を去り、家族とは二度と会うことができなくなる。千恵には慎重に判断してほしいと碧は思ったが、じっと思いに浸る老女にはそのことを伝えることができなかった。

 その夜、碧はカフェラテを置いて一人でマンションに戻ってきた。エレベーターに乗った頃から急激に空腹感が募ってきていたので、まずは夕飯を作ろうと思い、キッチンで食材を漁った。

 豆腐とツナ缶、レタスを具材にしたパスタを作ることにして、まずは湯を沸かし始めると、碧は洗面所で化粧を落とした。いろいろと頭の中を過るものがあったが、食事を終えるまでは何も考えないことに決めていた。

 パスタは隠し味の麵つゆを少し入れ過ぎたためにやや塩辛い味だった。

 食事を終えた碧は、リビングの床に寝そべって天井を見た。蛍光灯の明かりが少し眩しい。クッションを顔に当て、視界を暗くすると、精神だけの存在となって宇宙空間を飛ぶ千恵の姿を想像してみた。

 カフェラテの話では、精神体は極めて小さな物体でできていて、情報を伝導するエーナベルジェテルという溶媒物質に浸った状態で活動している。
 では、精神体とは形状なのだろう。カフェラテからは精神体の具体的な姿について話をされたことはなかった。

 碧が想像したものはクリオネだった。十五年程前に家族旅行で訪れた水族館で観たことがある、あの貝類の仲間だ。

 クリオネが透明な球体の中で翼を動かし、その球体が物凄い速度で宇宙空間を飛んでいる光景が、碧の頭の中で出来上がった。

 人間が到達できたのは月だけだ。月面着陸に成功してから五十年が過ぎたが、火星にも金星にもたどり着いていない。もしも千恵が精神体になったら、どこまで行くことができるのだろう。別の恒星系には到達できそうなことを言っていたのだから、彼女は地球人類初の太陽系の外に出た存在になるのだ。

 見たこともない知らない星に行くことができれば、それは瞬間的には楽しいだろう。だが碧は遠大な宇宙を旅すること自体に孤独を感じてしまいそうだった。きっと寂しくなって、すぐに帰ってきたくなるだろう。

 カフェラテは星間移動の目的を情報収集そのものであると言っていた。知りたいために星を巡る。その行動には振り返りが必要なさそうである。前進しなければ知ることができないのだから、ひたすら前に進むのだ。

 だけど私たち人間は違う。知ること自体を目的化して生きることなんてできないだろう。そこまで考えて、碧はふと思った。私はなぜ生きるのか。中学校の授業に出てきそうな陳腐な命題が頭に浮かんできて、碧は気恥ずかしくなった。

 私は――。生きているという状態があって、死にたくないから生きているんだな。

 そんな結論が碧の頭の中にようやく浮かんできた頃には、睡魔による意識の混濁が始まっていて、碧はそのまま眠ってしまった。

 翌朝は、身体の痛みとともに起床した。リビングの床にそのまま寝てしまったため、目覚めた時には背中に激痛があり、碧は身体を起こすのにすら難渋した。

 時刻は午前六時前だった。立ち上がった碧は腰に手を当て、両肩を前後に回す。カーテンを開けると、外は曇天だった。

 今日の碧には予定はない。午前中はのんびり過ごすことに決めた。千恵のことがちょっとだけ頭に浮かんだが、日曜日であれば洋介の家族も対応できるだろうと考え、声がかかっても遠慮することにした。

 碧はシャワーを浴び、洗濯機を回すと、スムージーを作って飲んだ。背中の痛みを和らげるつもりで入念にストレッチをしているうちに身体を動かしたくなってきたので、洗濯物を干したらジョギングに出かけることにした。

 午前八時、碧はTシャツにランニングパンツ、頭にはサンバイザーを被ってジョギングに出発した。日差しはないが気温は高いため、あまり走りやすいコンディションとは言えなかった。

 碧は住宅街を抜けて河川沿いのサイクリングロードを走るコースではなく、丘陵地を登って山の上の公園を目指すコースを選択した。住宅街を走って千恵の家の前を通ることを避けたい気分だったのだ。
 碧は昨夜から何とも言えないもやもやした感情が体内に溜まってきており、誰とも会いたくないし、誰とも話をしたくなかった。

 淡々と時を刻みたい今の自分には、ジョギングは最適だった。

 丘陵地へと登る道は、斜度が最大で八パーセントもあり、自転車に乗っている人が諦めて歩くくらいの厳しさがあった。碧もこの道を走り始めた最初の頃は、途中で何回か停まって息を整えなければならなかったほどだ。
 今では慣れたので公園まで止まらずに走り続けることができるが、それでも一番厳しい区間では、停まりそうなくらいの速度になる。

 十五分程走って公園に着いた時には、ランニングシャツは汗で濡れていた。碧は四阿(あずまや)の横にある水道で喉を潤し、ついでに頭から水を被った。四阿の中のベンチで休んでいた年配の女性から「暑いのに大変ね」と声を掛けられたので、会釈で返した。

 普段ならここからUターンするところだが、碧は公園を突っ切ってそのまま先に進むことにした。初めてのチャレンジである。

 丘陵地を抜けた先には工業団地がある。ジョギングでは行ったことはないが、車では何回か通ったことがあった。碧は丘を逆方向に下った。

 休日だというのに、団地内の広い道路には多くのトラックが縦列駐車していた。碧は東西南北の方角だけを意識して走る。スマホはマンションの部屋に置いてきている。手元のアイテムは左腕のGPSウォッチと、短パンのポケットの小銭だけだ。道に迷うかも知れないが、方角さえ分かっていれば何とかなると思った。

 いくつかの交差点をあてどもなく右に左に走っているうち、碧は車ですら来たこともない通りを走っていた。
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