第10話 雅也(2)
文字数 2,663文字
冷蔵庫には、一昨日に作りかけのままのラザニアが入っていた。耐熱皿に下準備が終わった具材が重ねてある。雅也が到着したところでチーズをかけてオーブンに入れる予定だった。
碧はもったいないと思いながらも、作りかけのラザニアをビニール袋に入れ、ダストボックスに捨てた。雅也が食べる予定だったものを、今更自分が食べるという選択は無かった。
碧は小松菜とバナナでスムージーを作ると、一口飲んでから洗面所に行き、服を全部脱いだ。昨夜は洗濯をしそびれたので、これから二日分の洗濯だ。碧はスムージーを飲み切り、洗濯機のスイッチを入れてからシャワーを浴びた。
二日連続で外食してしまったので、明日は自宅で食べよう。明日は水曜でスーパーの特売日だ。残業はせずに午後六時までに退社しよう。
そんなことを考えていた碧は、突如とものすごい喪失感に包まれた。何か大事なものが自分の中から削られてしまったような思いが込み上げるとともに、胸の奥が締め付けられるような感覚が襲ってきた。
ふらつきながら浴室から出てきた碧は、気分が悪くなって、トイレに駆け込んで吐いた。
削られたものの正体は程無くして分かった。雅也への思い、執着、欲望、期待、渇望、不安、鬱憤、焦燥。彼と付き合っているからこそ湧いてくる様々な感情の起伏が、碧の中ですべて平均化されていた。失ったのではなく、均されたのだ。
飲んだばかりのスムージーのほとんどをトイレに流した碧は、洗面所に戻ってうがいをして、濡れたままの身体をタオルで
ついさっきは動揺したが、改めて考えてみるとこういう心境の変化が新鮮なものに思えた。
雅也のことが嫌いになったわけではない。ただ、彼のことを考えるときの自分の気持ちが凪のような平静なものになっている。だから彼に何を言われても、あまり悩まずに対処できたのだろう。
でも、悩まずに対処できたことに満足して良いのだろうか。碧は自問自答した。
このような心境の変化が起きた原因はカフェラテにあるのに違いない。碧は確信した。他には原因が考えつかなかった。
あいつ、影響は出ないと言っていたくせに、と碧は腹立たしい気分になった。
翌朝、碧は二日ぶりにジョギングに出た。会うことを避けた昨日とは違い、今日はカフェラテと少し話をしてみたいと思っていた。
サイクリングロードに向かう往路では、篠崎邸の庭にカフェラテの姿はなかった。散歩の時間にタイミングが合わないと会えないな、と思いながら碧がいつものコースを走って戻ってくると、子犬はブロック塀の上に縮こまって座っていた。頭を前足の上に乗せている。
「猫みたいだね」碧はカフェラテに近づいて言った。「普通の犬は、こういうところには座らない」
「なるべく高いところにいたいんだ」カフェラテは碧に顔を向けずにそう答えると、「話しかけるならもっと近づいてくれよ」と言った。
「そうね」事情を察した碧は、カフェラテの顔のすぐ前に行くと、塀に両肘をついた。
「あなただけなの? 篠崎さんはどうしたの」
「千恵はまだ家の中だよ。散歩の時間まで暇だから、私一人で出てきた」カフェラテは家の方に顔を向けた。
「そろそろ出てくると思われる」
カフェラテは意識して小さい声で喋ろうとしているようだった。もともと喉を
「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
碧がそう言うと、カフェラテは顔を戻し、「いいよ」と了解した。
「あなた、ひょっとして私の頭の中をいじらなかったかな?」
カフェラテはなかなか答えなかった。舌を出してハアハアと呼吸しながら碧を見つめていた。犬としては普通の仕草なのだろうが、碧は馬鹿にされているような気分になった。
やがてカフェラテは碧の面前まで顔を近づけると、「碧の脳の機能に改変を加えたという意味で質問しているのだとすると、そういうことはしていないという回答になる」と言った。その思わせぶりな言い方が碧には引っかかった。
「質問を変えるね。私の気持ちというか、意識を
「そういう質問であれば、やったという回答になる」カフェラテは碧の耳元で
「特定の個体?」
「碧の言動の記録から特定したのは同じ生物種で、その識別名称は田口雅也だ」
カフェラテの口から雅也の名が出た途端、視界が暗くなったような気がして、碧はよろめいて後ろに下がる。倒れそうになったので、塀にしがみついた。
「なんでそんなことをしたのよ」
碧はつい大声になっていた。
「碧の意識の中から情報を得るのに邪魔だったのだ」
「ひどい。頭にきた」
碧が非難すると、カフェラテは碧に顔を向けて歯をむき出した。まるで怒って
カフェラテは塀の上を歩き、また碧のすぐ近くに寄ってきた。
「ああいう偏向力が働くと、その者本来の思考に
うーん、と碧は唸った。確かに今日の碧は、雅也のことをぐずぐずと悩むことはなく、雅也の一挙手一投足に気を遣うこともなかった。その点は、カフェラテの言っていることは正しいのかも知れない。だが、それを歪みの補正と言われても受け入れ難かった。
「それはさておき」カフェラテはさらに身を乗り出し、碧の腕にしがみついた。「この星の物性についてもう少し詳しいことを知りたい。書物が保管されているような場所に連れて行ってくれないか」
「無理よ」碧は即答した。「私には仕事があるの。それに犬を図書館に連れて入ることはできないと思うわよ」
「困ったな」カフェラテは首を傾げようとして、バランスを崩して塀から庭に落ちた。
キャン、と大きな鳴き声が響いた。
「カフェラテ、どうしたの」
家の方から千恵の声が聞こえ、次いで何度の窓の網戸を開ける音がした。
「私、行くわよ」碧は小声でカフェラテに声をかけると、塀から離れる。念のため左右を見たが、通行人はいなかった。
「今夜、また二十二時にマンションに行く」
塀の向こう側からカフェラテの声が聞こえた。