第36話 決断(2)
文字数 2,384文字
「決めたんですか」
「カフェラテが今言ったことに間違いないのですか。精神体になることにしたんですか?」
「まあ、ね」
千恵の半開きの口元が少し震えていた。碧の剣幕に驚いたようだった。
「カフェラテについて行ってしまえば、もう戻ってくることができないんですよ。家族に会えなくなりますよ」
碧は声量を抑えることはできたものの早口は止められなかった。「手術で腫瘍がきれいに取り除ければ、元の生活に戻ることができるんですよ。簡単に決めていいんですか」
「碧さん、私は簡単に決めたつもりはないの」
千恵にしては大きな声だったので、碧は驚いて口の動きが止まる。千恵の唇はまだ震えていたが、その表情はゆっくりと笑顔へと変わっていった。
「碧さんの気持ちはすごくよく分かる。そう言われるだろうと思っていた。でも大丈夫なの。私は後悔しないと決めたのよ」
「でも――」
後悔しないことをあらかじめ決めておくことなんてできない。碧はそう言おうとしたが、千恵が自分から説得されることを望んでいないことに気づき、言葉を飲み込んだ。
「分かりました。二十――、午後八時ですね」
残業がなければ余裕で間に合う時間だ。碧は了解すると、サンバイザーを被り直した。マンションに向かって走り出そうとした。すると千恵が「お願いがもう一つあるの」と言って立ち塞がった。
「できれば今夜は、碧さんにこの家に泊ってほしいんだけど」
「うーん」
碧は正直気が進まなかったが、千恵の頼みを受け入れることにした。ただし、千恵を迎えに来るのであろう洋介や枝里子と鉢合わせをしたくなかったので、翌朝は早朝のうちにマンションに戻ることにした。
昼休み、
「しゅうかつですか。もう忘れましたけど、私はそんなに企業を回りませんでしたよ」
「違うわよ」
芹那の返しに、碧は笑って訂正した。「就職活動ではなくて、
「突然、何を言い出すの」愛未が聞いた。「碧の身近な人が終活を始めたという話なの?」
「そうじゃないけど」碧はいったん否定したものの、「いや、そういうことなんだけど」と言い直した。「もう少しで自分の人生が終わると自覚した時にどうすべきなのかということ。あまり周りの人に迷惑を掛けずにこの世から消え去るにはどうすればいいのかな、と考えている」
「あなた、大丈夫?」愛未が目を見開いて碧を見た。「突然何を言い出すのよ」
「水原さん、病んでますね」芹那が目を細めた。
「別に病んでいないわよ」碧は胸の前で両手を振った。だが、芹那はにんまりとした笑顔を浮かべた。少し開いた唇から白い犬歯が光っている。
「碧さん、まだ若いのですから、これから楽しいことがたくさん待っていますよ」
芹那は明らかに面白がっていた。
「去年、お婆ちゃんが亡くなったんだけどさ。最後は大変だったのよ」
愛未が自分の祖母の話を始めた。
「
意思の疎通が難しくなって、最後はまるで獣のようだった、と愛未は語った。「私はお婆ちゃんのことが大好きだったけど、ああなってしまうとさすがに辛かったわ。死んでくれて、ほっとしたというところかしら」
「ほっとしたなんて、可哀そうなことを言ってはいけませんよ」芹那が口を尖らせたが、愛未は
「残された家族を悲しませないために、最後に世話をさせて疲弊させて『早く逝ってよ』と思わせるような配慮をするんだ、という説を聞いたことがあるわ」
そのような話は碧も耳にしたことはあるが、俗説というよりは介護に疲れた家族への慰めの言葉だと捉えていた。
いずれ、千恵がやろうとしていることが終活ではないことは間違いない。人里離れた山奥に隠居して、外界との接触を断つようなものであろうか。ただし、家族は千恵が隠居したとは思わず、必死に連絡を取ろうとするのだろう。
母親が意識不明の状態になり、日々介護をしているというのに、実は意識は遥か宇宙を旅しているということを知れば、洋介や枝里子はどのように思うだろうか。喜ぶのか。悲しむのか。憤るのか。
「ところで田口君に会ったら、碧が飼っている犬を見せてもらったと言っていたけど、いつから飼っているのよ」
愛未が聞いてきた。碧は「飼っていない。ちょっとの間、預かっただけ」と否定した。いつの間に雅也は愛未と親しくなったのだろう。
「あんたたち、仲直りしたのね」
「誰だって時間が経てば仲直りくらいするでしょう」
「どんな犬ですか?」
芹那が話題に食いついてきたので、碧は苦笑しつつ「雑種」と答えた。
話題はここから、芹那の夫の実家で飼っている犬のことに移っていった。
碧は楽しそうに会話する目の前の二人を見ながら、今回のことをいろんな人に相談したいと切実に思った。だが、正確な情報を伝えることもできないので無理な話だった。
せめて雅也には、自分の
ところが生憎と今日の彼は残業で、午後八時までに会うことは叶わなかった。LINEでそれを知らされた碧は、肩を落とした。
千恵の病気と残された時間について心配していたはずなのに、いつの間にか残される家族のことを心配するようになっているのは、自分が残される側に属しているからなのだろう、と碧は思った。