第21話

文字数 1,327文字

「あなたは自分の家を捨てたときに恐怖は感じなかったのですか?そこにいれば、安全で楽しく安定した暮らしがあったのに」
「だって自分を偽らなくてもいいんですもの。私は好きなときに好きなことを好きなだけできる環境を手に入れたの。それ以上何を望むと言うのでしょうか」
「でも、他の人と仲良くしていかなきゃ生きていけないじゃないですか」
「確かにそうですね。でも、それに縛られてしまって自分自身を大切に出来ていなきゃ、何のために他人の顔色を伺っているのでしょうね。自分のために自分を無くすって変ですわね」
 私は、価値観は人それぞれで自分は自分で他人は他人だと頭では理解していた。人間関係をこじらせないように周囲に合わせることを必死に頑張っている、そんな自分の生き方も自分自身だと言い聞かせてきた。
 でも、もしかするとそれは自分自身に対する言い訳だったのかもしれない。私はもう少し別の私をにじませても良いのかもしれない。
 その女性は立ち上がり私のほうに向いて言った。
「もうしばらくすると、雨が降りますよ。孤独には強いのですが、雨だけは好きになれません」
 私は空を見上げた。雲ひとつない爽やかな五月の青空がこの河川敷一帯を覆っている。雨の気配など一向に感じられない。
「ご飯も探しに行かなきゃなりませんし」
 そう言ってその女性は砂場で遊んでいた子供に
「さて、もう行きましょう」
 と声をかけた。この人は自分の子供にも丁寧な言葉で話す人なんだと思った。
 亜美と一緒にいた男の子は少し名残惜しそうにしていたが、すぐに立ち上がり亜美に手を振った。二人で作っていた小さな山にはトンネルが開通したところだった。
 私は亜美に近づき声をかけた。
「何を作っていたの?」
「これはね、山でね、トンネルは川なのね。でね、車、走るの」
「そうか、車走るのか。カッコイイね」
 亜美の顔が少し誇らしくなった。
 私は顔を上げて周囲を見渡した。
 川の上流の方から少し暗い雲が見えた。相変わらずこの場の空気は澄んで爽やかだ。向こう岸にはまだ青年が一人ベンチに座っている。その土手の向こうに一人のスーツ姿の中年男性が足早に歩いていた。川に架かる橋は、ほどよく車が通り、歩道にはちらほらと人影が見える。車のエンジン音と川の流れと風の音が一つとなり私の頬を撫でた。
 あの女性と男の子はもういなくなっていた。
「さて帰ろうか。もう充分遊んだでしょ」
 私は亜美に声をかけた。
「はーい」
 亜美は立ち上がり手についた砂を払い、ついでにお尻の砂も払い落とした。
 私は亜美と手を繋ぎ土手へと歩いた。落としきれていない手のひらの砂を感じたが、亜美の体温がそれをあまり気にさせなかった。
 土手の上に立つとひと組の野良猫の親子が私たちの前を横切った。親猫は汚れだろうか、白い毛が薄茶色になっていて足元は濃い茶色だった。赤い首輪がかけられていた。子猫の足は細くスラリとしなやかさがあった。
 子猫がこちらをチラチラと見ながら母猫の背後についていった。その小さな顔は美しく、少しつり上がった大きな瞳をしていた。
「好きなときに好きなことを好きなだけ、か」
 私は小さく呟いて雲に隠れた太陽をぼんやりと眺めて、もう一度亜美の手を握り直した。
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