第16話

文字数 1,010文字

「心中 宵庚申(しんじゅう かのえさる)」において、近松はお千世と半兵衛を見事に死なせる。この時代、心中はたまにあるエンタメ事だったようだが、大概はどちらか一方が生き残り、より悲惨な結末になることが多かった。それを市井の人々は困り顔と好奇心の混ざった眼差しで井戸端の肴にしていた。
 近松は半兵衛にお千世を一太刀で刺し殺し、自らには切腹をさせて二人を死なせるストーリーにした。その死に方は美しく、近松心中物の中でも随一のアーティスティックな締め方をしている。愛するものからの最期の贈り物が冷たく尖った刃で、白茶色の着物に血の紅色が広がっていく。この美しさは愛する人との消滅願望を持つ多くの人々に共感をもたらせたに違いない。などと私は改めて思い返していた。
 江戸中期から後期にかけての饒舌で嘘のない活気溢れる空気に浸っていた私にどこからか上品な女性の声が聞こえてきた。
「子供達は元気でいいですねぇ」
 私はこの突然の声かけで急遽、近松心中物の思索を打ち切り辺りを見渡した。
 ふと後ろを振り見ると、上等な白いロングスカートを履いた女性が立っていた。
「横に座ってもよろしいですか?」
 その女性はそう言いながらベンチに座ろうとた。
 私はそそくさと左に寄り、座っていたベンチの右側を開けた。
「どうも」
 と言ってその女性は音もなくフワリと私が開けたスペースに腰かけた。
 年の頃なら私より幾分か年上か、その女性は薄茶色で襟の折り返しの部分だけが赤くデザインされたシャツに白いロングスカート、足元は濃い茶色の皮靴というカジュアルな服装にもかかわらずどこか品のよい雰囲気を漂わせていた。短く整えられた髪型が大きな瞳をより一層際立たせ、美しかった。
「子供ってなんであんなに元気なんですかね。私なんて危なっかしくて見てられない時があります」
 ふと目線を砂場に向けると、いつの間にか男の子が一人、亜美の横で遊んでいた。
 その男の子は年の頃は年中さんぐらいか。小さな顔で、少しつり上がった大きな瞳をしていた。髪の質は艶やかで光沢があり、サラサラと風に揺れている。体は華奢で半ズボンから見える小枝のような太ももは細く、足首まで一直線に伸びていた。
 母親の目の大きさと肌の白さをそのまま引き継いだのだろう。その少年の美しさに私はしばらく魅入ってしまった。美形という言葉はこの子のためにある言葉だと思った。
「そうですね」
私は愛想笑いを浮かべながら答えた。
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