第25話

文字数 832文字

 「ここ、軽音楽部の部室ですよね」
 その男の声は見た目とは裏腹に少し鼻にかかった低い声だった。
 「そうみたいです」
 お互いによそよそしく、交わした挨拶だったが、俺はその姿と声のギャップに可能性を感じた。すぐに男をバンドに誘った。俺は、そこでバンドを組んだ。念願のロックバンドだった。
 それから俺たち二人は曲を書き、バンドメン募で集めたリズム隊とライブを繰り返した。この三年間は俺の人生で一番忙しく、充実した時間を過ごすことができた。高校生の頃に感じていた虚無感は見事に無くなっていた。もう二度とあんなにはしゃいでるだけで時間が過ぎていくなどという日々もこないだろう。
 あれから数十年、緩やかな坂道を転がるようにゆっくり、ゆっくりと音楽に対する気持ちが薄れていった。
 今の俺は毎日決まった時間に会社に行き、準備してホワイトボードに行き先を書き、社用車のキーをキーボックスから取り出し、エンジンをかける。
 気がつけばどこにでもいる、家族に煙たがられながらも小さな幸せに喜びを感じるくたびれた中年男性となっていた。
 時々、日々の虚しくて何も考えられない時間の中で、目の前にあるのは空虚と満たされない現実だけなのではないかと思ってしまう。それが人生の現実なのだろうか。将来の夢や目標を見失い、ノルマを達成することだけを課せられた俺の生活。
 あの時部室の前に立っていたその男に、自分はその人生を選んだのだろう。安定の道を自ら選んだのだろう。なら仕方ない。文句を言うなってそんなイヤミの一つも言われてしまうだろう。確かに、そう言われればそれまでだ。だけど、そんな今の自分とあの時の自分、それぞれの人生に向き合った時、虚しくて空っぽな今の自分から逃れたいと心底思う時がある。誰もが皆、若い頃に夢見た、煌びやかで充実した時間を送り続けられる訳じゃない。日常に感情を麻痺させないと、現実が辛くなる。
 思い出だけは改変、アップデートを繰り返し美しいものとなっていることに俺は気づいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み