第35話

文字数 612文字

「そうかも知れないな。私は大きな事はできない。けど、無自覚に生きているだけだとしても、何かしらの影響を誰かに与える事はあるのかも知れませんね」
 河を渡す橋から冷たい風が吹いてきた。
 俺は一瞬目を閉じて、すぐに瞬いた。
「おや、風が出てきましたね」
 男は空を見上げた。タバコはいつの間にか手から消えていた。
「一雨来ますね」
 いつしか空は分厚い雲に覆われ出している。空気が重たく、澱んでくる気配がしていた。
「雨は好きです。命の水が天から降り注ぐから」
 男はそらを見上げながらそう言った。
「私は、雨は好きじゃありません。濡れるのは嫌いです」
「そうですか」
 男はニヤリと笑った。その顔は愛想笑いでもなく、意見の合わない者への嘲笑でもなかった。ただ、表情が変化しただけだ。
「じゃ、僕はこの辺で。長く付き合わせてしまってすみませんでした」
 男は一度河の方に顔を向けると、少し離れた橋の方へ歩き出した。
 「あ、いえいえ、お疲れ様です」
 俺は、適当な挨拶で男の姿を見送った。
 風はますます冷たい空気をこちらに運んできている。五月の爽やかな陽気はどこかへ逃げてしまったようだ。
 もしかしたら、俺は思い上がってたのかもしれない。俺は、ロックを聞き出した頃から俺のメッセージが誰かに影響を与えることを望んでた。音楽で世の中を変えられる。そう信じていた。そして、俺はそれをできる人間だと思い込んでいた。少なくとも、その可能性はあるはずだと思っていた。
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