第7話

文字数 931文字

「なんや人は忘れないんやなぁ。記憶になければ無かったとおんなじやねんけどなぁ。嫌なことほど覚えとる。アホやなぁ」
 オッサンは遠い目で水面を見ている。
「そうなんですよ。バカなんです。いつまでも嫌なことに縛られてしまうんです」
 そう。俺はわかっていた。この気持ちが続く限りは何も前に進まないし、好転もしないことは。
「でもな、いつまでも嫌なこと思い出してウジウジしとってもしゃあないやん。そんなん、少なからず思い出してる時間は嫌な気分になるんやろ?後悔なんかすんな。反省もすんな。そんなんやって一瞬でも嫌な気分で過ごす時間ももったいないわ。楽しく生きていきたいんちゃうんか?アホらしい」
「でもなかなか忘れられないんですよ。それで、もがいてももがいても抜け出せない。僕だってこの生活がまともだなんて思っていません。でもどうすることもできない」
 いつの間にか、俺はオッサンの方へ体ごと向けていた。
「んで、いつか死のうと思ってたんか?」
 オッサンの目が急に優しくなったような気がした。
「まぁ、そんなところです」
 そんな視線に俺はますます目を伏せた。
「そうか。自殺するんやったら餓死がオススメや。なんもかんも投げうって、徒手空拳となって十日間ほど命と戦ってみろ。死ぬんがアホらしくなるから」
「はぁ?餓死ですか」
「せや。餓死や。なんで人は忘れないんやろうな。さっきも言うたけえど記憶になければ無かったとおんなじやん。でもな、嫌なことほど覚えとる。ほんまにアホやで。でもな、腹減ったは別や。腹減ったは本能や。食わな死ぬっちゅう極々当たり前の本能や。そこにはアホもかしこもあらへん。」
あまりの突然な提案に俺は少し面食らった。ふつう、こんな話なら自殺を止める方向に行きそうなのに、このオッサンは自殺の提案をしてくる。俺は思考が停止しそうになった。
「ワイの周りなんかなんかしょっちゅうやで。そんな経験ないやろ?食いもんなくて死ぬってなかなか辛いで。まぁ、ワイはまだ死んだことないけどな」
 オッサンはニカっと白い歯を見せて笑った。確かに俺は餓死寸前はおろかひもじい思いなんてしたこともなかった。
 湿りっけのない軽やかな風と、暖かい日差しがオッサンの浅黒いニキビ肌を奇妙なものに見せている。
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