第36話

文字数 810文字

 でも、いつしか時は経ち、可能性なくなっていく。その事に薄々は気づいていたが、目を背けていたんだ。大きかった夢は縮んで萎みきった風船のように抜け殻だけが心のどこかに大切に保管されていた。でも可能性は少なくなるとも、無くなるわけではない。ほんの数パーセントでも諦めなければその夢は叶うはずだ。そう思っていた。
 でも、もう、その夢の抜け殻は大きくなることはない。大切にするものでもない。そんな大それた夢を見ることはもうしなくてもいいのだ。可能性に縛られることはもうないのだ。俺は、やっと解放された。
 でも、もしかしたら、自分では自覚しなくても誰かに影響を与える存在になっているかもしれないのだ。それが、形となって俺の前に現れなくても、きっとそれは俺が生きてきた、そして生きていく証となるのだろう。
 一歩ずつ小さくなっていく男の背中を見ながら俺は、ベンチから立ち上がった。
 不思議と心は穏やかになっている。
 河川敷の芝生に設られたベンチには若い男が一人で河を眺めている。足元には小さな亀がいた。その男は亀の存在には気づいていないようだ。独りボンヤリと河の流れを目で追っている。
 俺は男の歩いて行った方向とは逆に歩みを進めた。ここから幹線道路まで、数分。まだ雨雲は来ないだろう。頭の後ろで羽虫の飛び去る音が聞こえた。俺は少し顎を上げ前向きに歩く事にした。

「演奏が大好きなんだ。音楽を演ると、そこに生きている人たちの生き様や哲学が余所者の俺にも伝わってくるんだ。そうして、そのコミュニティに少し入れたような気になるんだよな。バンドって最高だな」
 低くて少し鼻にかかったような声で、その男の顔が少し綻んだ。

 その男の訃報を知ったのは、それから三日後のことだった。通っていた大学のすぐ近くのアパートで独りひっそりと死んでいたらしい。大学時代に組んで以来その男はバンドを組まなかったらしい。部屋にはギターと書きかけの楽譜が残されていた。
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