第30話

文字数 935文字

 長年のセールスマンのアンテナが立った。こんな時は焦らず、売り気をあまり出さない方が良い。ゆっくりじっくりと攻めていく。俺は別の話をふってみた。
「私は昔、バンドを組んでいたんですよ」
「へぇ、僕も音楽は大好きです。世界中に音楽はある。その音を聞くとその場所の歴史や風土、文化なんかがボンヤリと理解できる。いいもんですよ」
「ちょっと頑張ってたんです。その当時の音楽やってる者なんて、本当にめちゃくちゃなヤツらばかりでしてね。スタジオのマイクコードは引きちぎるわ、ライブハウスの映像モニターなんか投げつけて喧嘩するわ。荒っぽい人ばっかりでしたよ」
 男は突然の話題の変更にも顔色ひとつ変えずにこちらを見ている。
「特に酒が入るとダメですね」
 俺は小さく笑った。
 男は
「まぁ、ね。酒は人を変えるって言いますしね」
 と、また無表情で会話を合わせてきた。
「でも、本当にあの頃は楽しかったなぁ」
 俺はタバコを小さく吸い込んだ。
「アナタもその暴れていた一人だったんですか?」
 男が覗き込むように訪ねてきた。
 その仕草が少しおかしくて、俺は心が少し軽くなった気がした。
「いえ、私はもっぱらそれを止める役目で」
 俺は自嘲気味に呟いた。
「そうでしょね。アナタからはそんな乱暴さは見受けられない。大人しい、穏やかな雰囲気があります」
「そうですか。わかりますか。私もあの時暴れる側に回っていたら、どうだったんでしょうね」
「どうだったって言われましても、今とあんまり変わらなかったのではないですかね。人間の本質なんてのはそうそう変わらないでしょ。たぶん」
「そうでしょうね」
俺は流れる川を見た。
右斜め前の向こう岸には、申し訳程度に取ってつけたような遊具で女の子が遊んでいる。その傍らで母親がベンチに座ってその様子を眺めている。ベンチのすぐ横で白い野良猫が顔を洗っている。
「今ちょうど思い出していたところなんです。自分のバンドを自分で解散させたあの瞬間を。あの頃のアイツは今どうしてるのかなぁって」
「思い出ですか」
「そうですよね。ただの思い出話です。けど、バンドメンバーは散り散りになって、連絡先もわからないんです。特に、ボーカルだったヤツとは一番仲良かったのに」
「噂とかそんなものも一切聞かないんですか」
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