第13話

文字数 1,080文字

ある秋の昼休み、私はいつものように司書さんが整理し終わった本の塊を両手に抱えて図書室をウロウロと歩き回っていた。その日は比較的返却されていた本は少なく、私は余裕を持って図書室の中を歩いていた。
「にー105」とラベリングされたその本は日本文学の棚であることはもうわかっていた。そこは図書室の一番奥、天井の蛍光灯の光も淡く薄暗い一画だった。背の高くない私は不安定な折りたたみ式の踏み台の上で手を伸ばしていた。所定の場所に本を納め終えた私はふと肩の力を抜いた。そこでたまたまの近松門左衛門の戯曲集を見つけた。
黒い表紙に金色の文字で「現代語訳 近松門左衛門 戯曲集」と書かれたその本は、カバーが無かった。私は、そのカバーのないむき出しの本に少しの違和感を覚え、気になり手に取ってみた。
「幾冊もある本は自分が一番欲している時期に必ず出会い、その時に手に入れなければ次はない。」と国語の教師が言っていた。まさしくその瞬間がそこにあった。
現代語訳と名ばかりの古めかしい文体のその本は私に新しい世界を見せてくれた。たとえ今から数百年前とはいえ、人々は生まれ育ち恋に落ち、そして死んでいった。そして、そのような物語を庶民は下世話に喜び、少しリアルな我が事のように他人の私生活を盗み見ていた。これは、現在の世の中とあまり変わらない。そう感じた私は興味のベクトルが以前とは全く異なる方向に向かって進んでいくようになった。学校内でのポジションは守りつつも、新しい世界に入り込み想像し、夢想した。それから、私はあらゆる古典文学を読みあさるようになった。
中でも私を魅了したのは、江戸中期の落語、浄瑠璃、俳句、戯曲といった庶民の暮らしが活き活きと、それでいて生々しく描かれている作品だった。江戸中期の人々の暮らしに思いを馳せることが私のひそやかな楽しみとなった。もちろん、この楽しみは誰にも話す事はなかった。
それから7年後、私は江戸中期の日本文学からみる風俗を卒業論文のテーマとした。
大学を卒業した私は、かねてからの人手不足と好景気の波に乗り、誰もが知っている大企業の総合職にすんなり就職を決めた。
就職活動は簡単じゃない、とかエントリーシートを何枚も書いて、会社訪問やOBと時間をとってあれやこれやをやりながら、初めて内定をもらうものだと学生課の人に言われていたので、ある程度覚悟は決めていたが、意外とすんなり決まってしまったので私は肩透かしを食らった。
今から思うと、薬にも毒にもならない出身大学だけが取り柄の私を採ったのは、会社の気まぐれ以外の何者でもなかったのだろう。
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